私・人生捨てるものなし
- 1941年生まれで、今の新横浜駅付近の出身である。物心ついた時期から興味は動く物にあったようだ。戦時中で物がない時代、銅線などが落ちていると拾ってきて大事に保管していた。近所のおばさんが「井戸のつるべが落ちたが銅線ない」などと私にもらいに来ていた。終戦直前には空から、文字が書かれた紙や銀紙が落ちてきて拾い集めた。文字が書かれた紙は「日本に降伏を求める米軍文書」だったようで、持っていると消防団の叔父さんが「こんなものを見るのは駄目」と集めていった。銀紙はレーダーかく乱のためのペーパコンデンサーで綺麗だった。中には丸ごと落ちてくるものもあり当たれば危険なものだった。東京空襲のためのB29の編隊の轟音も聞いていた。音が聞こえ始めて頭上に来るまで15分消えるまで15分、約30分以上の編隊音が聞こえていたかも知れない。空襲もあり度々夜中に防空壕に非難した。母親は「子供なのによく起きるね」などと言っていた。最後は昼間も米戦闘機の遊び空襲があった。横浜の空が、薄赤くなっているのも防空壕から眺めていた。
家はお婆さんは質屋をやっていたが、その頃はもう閉めていた。しかし、蔵には質草が沢山あって、それで遊んでいた。残念なことはその蔵の中には明治時代にひい爺さんが乗っていたと思われる商船模型があったが、それが転居でなくなってしまったことである。「婆さんは質屋だった」は、その後私が自営業に転身し、その中に小売りもあるが平気でそれをやれた原因になっているのかも知れない。
- 終戦は小学校入学前だが、急にカタカナからひらがなに変わると言うことで、お婆さんにひらがなを数日教えてもらった。親も乱暴なもので当時多摩川園前に住んでいた母方父母の家にも一人で電車で出かけた。漢字もわからないものだから駅名を読めず、電車のドアにしがみつき必死になって通過駅の数を数え多摩川を渡ってほっとしたこともある。戦後間もなくだが、叔父からハーモニカをもらった。音を出している内に「聞けば吹ける」ようになった。ところが、小学校の学芸会に「ハーモニカを吹けるものは持ってこい」と言うことで持っていったら、私だけ逆吹きだった。直すのに3ヶ月かかった。ハーモニカは、その後私が音楽に興味を持ち、ハーモニカ音はブラスだから、ブラス系を趣味とすることに影響を与えているかも知れない。音楽は結婚やその後の事業にも影響している。
- 小学校に入った。往復は下駄だった。運動場は荒れていて、それでも運動ははだし、給食はコッペパン一つと焦げた匂いがする脱脂粉乳だった。中には往復ビンタの怖い先生もいた。運動靴を履いたのは3年生のとき、ゴムの一体型で裏などないもので冬は寒く、靴下などは1日で穴があくような物だった。鉛筆の芯にも異物があり書いていると引っかかる、ノートもひどい紙だから頻繁に破れると言うようなものだった。3年生の時に始めてチョコレートが口に入った。米軍基地に勤めている人がアルバイトで木箱に入れて売りに来ていたものだった。紙芝居の叔父さんも居た。黄金バットなどだった。時々ただで後ろで見ていて追い払われた。
- 裕福ではなかったが、小遣いやお年玉をためればOゲージという電気機関車の部品を買ってきて組立・動かす程度のことはできた。小学校2年生位からはこれにこり始めた。親は不器用だから、模型屋の親父さんに教えてもらいながら、100ワット半田ごてで機関車の真鍮板を接着したり、結線し動かしていた。これも後々役立った。中学時代にブリキ製のゴミ箱づくりがあったのだが、慣れない人は板の接着でハンダが団子になる。クラス中の接着をやった。就職後部下に通信機工事の現場でハンダ付けを言いつけておいたら、出来ないと言ってきた。電源系の太い接着だから難しいのである。あっさりやってのけた。部下から器用ですねと言われた。
- 天然色映画も横浜で始めて見た。「子鹿物語」だった。こんなものもあのかと綺麗さにびっくりした。その帰りに本牧の飛行場で複葉機が飛び上がるのを眺めた記憶もある。親父が何か、米兵に聞いている。何言ったの?と聞くと「何人乗り」と聞いたら「二人」と言っていた、と言うことだった。
ひどいこともやっていた。近所の家から日本刀を持ち出して遊ぶ、同様に空気銃を持ち出して遊ぶ、不要になった傘の柄を切ってピストルをつくり玉は釘、火薬をつめ発射する、それで山に入って戦争ごっこをする、ポケットには常に小刀が入っていた、などである。
- 4年生の時、弟が生まれるので母親が山梨の実家に帰省したのを幸いに、1学期の最後の日に帰ってきたとき放り出したランドセルが9月の始業までそのままで宿題も日記も書かず遊びほけた。人生最大の遊びほけだろう。二学期の成績が下がり怒られた。
- 4年終了後大磯へ転居することになった。朝鮮動乱のおかげで親父の所有していた株が価値を生み、家を大磯に持つことになったようだ。親思いだったのだろう親父の母親のぜん息が「海洋性気候でよくなるだろう」と言うのも理由の一つだったらしい。事実よくなっていた。
大磯は実質的には私の人生の意識のスタートポイントであったように思う。横浜では商人・農業者・サラリーマン主体だったが、転校してみると漁師も居る。また、学校には財閥の子弟もいる。こんな人種も居るのだと思った。
わけがわからなかったが「英語に通え」と言われて英語塾に通い始めた。1951年である。意義もわからずこれは全然役立たず、小学校を終えるまでローマ字もまともに読めなかった。ところが、中学に入り英語が始めるとローマ字などはあっという間にすらすら読めるようになり、子供心ながらこの頃既に日本の英語教育には疑問を持っていた。ローマ字教育などやめて英語を最初からやればよいのにと思ったことである。何故小学校から英語塾?それは親父は高専だったが、高専が英語重視で戦時中も英語授業をやめない環境があり、英語の今後の重要性はわかっていたと言うことらしいが還暦過ぎに弟から教えてもらった。
- 小学校5年では、一人で大磯から横浜・東京に出かけていた。目的は模型屋さんや東京の秋葉原である。途中は駅周辺だけ人家、大船と横浜間は20分間畑だらけだった。楽しい一時期だったが、ここも2年半ほどで今度は東京転居となった。理由は、親父の母親が脳出血でなくなり大磯に居る理由がなくなったことと、東京勤めには時間がかかり不便だったことである。
一時仮転居で母親の家に居候、あわてて家を探し2ヶ月でまた転居という具合で中学は2回転校した。転校はちょっとだけつらかったが転校3回の経験で、その後あまり人に物怖じしないようになったのではないだろうか。
- 中学は大磯がスタートだったが、中学には立派な工作室があり、部活もあり今度はエンジン付きのUコントロールという模型飛行機にこり始めた。エンジンが欲しくてたまらなかった。買ってやると言われたが転職前で失業中の親には金がない。だだをこねていると、ある日突然エンジンを持って親父が帰ってきた。後で知ったが、ひい爺さんの勲章がエンジンに化けたと言うことだった。このエンジンは今でも記念品として残してある。東京に転居したのだが飛行機は続けていた。東工大や多摩川のグライダー場まで自転車で飛行機を運んでいたが、飛ばせるところも少なくなり、受験勉強も忙しくなりやめざるを得なくなった。大磯の中学校の工作室は東京でもお目にかかったことはなかった。
- 高校も今考えれば遊び半分だった。亡くなった先生から「その後他の進学校に言ったが、君たちはのんびりだったよ」と笑われていた。朝1時間前には登校してソフトボール、終わればまたソフトボール、これでは大学に入れなと思うようになったのは2年のときである。国立が駄目だったので、私学となった。総合大学に入ったのに工学部だけの付き合いでは物足りないと言うことで、部活はブラスバンドに入った。おかげで土日は野球場、週に1回は練習となり、気の良い友人にノートを見せてもらい、実験のレポートを写させてもらい卒業した。
この頃、父母が家計を助けるために借金をして家をお神楽にして貸すことになった。学生で部活ありと言えども暇である。親父は不器用である。設計へのかかわり、完成後はアパートの管理(電気料金などの請求や便所を含む掃除)もやっていた。こんなことで、私のアパート経営は大学時代から始まっている。親が町会の会計などになり、事務方となったのだが、ひょろひょろ字の親父では鉄筆も持てない。私が鉄筆を握り800枚の印刷もやっていた。
- 卒論は、昭和38年の時だったが「就職先はどこでもよい、卒論は何でもよい」といい加減なことを言っていたら「君のような生徒なら就職先の当てはめで苦労がない」と先生から言われ「PCM」というディジタル通信のはしりの卒論を与えられた。これは、その後の技術者や自営業人生に大きな影響を与えることになった。
就職し技術者になって10年もしない内に、ディジタル社会への準備がはじまった。伝送路はそれ以前から、交換局の機器にもディジタル化が訪れてきたのだが、自分の部門でそれを知る人はほとんど居ないので、海外出張が回ってきた。英語もろくに聞けもしないし・しゃべれないが出張ついでにジュネーブを中心としてヨーロッパを見させていただいた。これもまた今の事業に影響を与えている。飲み屋の女将からは「ヨーロッパでオシッコしてきたの」とからかわれた。1970年代である。私の部門はコンピュータとは直接関係ない部門ではあったが、親戚みたいな部門でもあるから、偶然その頃今のinternet論文(ARPAと言う)にも触れることになった。その後20年ほど経過し、既に自営業になったいたが「何かinternetなどという言葉が聞こえてくる、便利そうだから使ってみようか」と調べてみたら、この論文の延長にあるものだったので「それなら知っている」と容易に取りつくことができた。
- それと、パソコンである。途中でソフト部門に引っぱられたおかげで、ソフトウェアで管理職として触れることになった。会社ではWindowsだ。わからければ部下にちょっと手助けを求めることができる。自営業になるとそうは行かない。そこでMacとなった。自分の経験方向に事業を導こうという意識は全くなかったのだが、結果的にそうなってしまったようだ。そんなことで、子供時代から学生・サラリーマンの経験はすべ今の事業で生きている。「人生捨てるものなし」である。これだけを言いたいために書いたことが趣旨である。