《大山街道》
大山街道は、江戸の赤坂御門を起点に多摩川を渡り、二子、溝口を経て、馬絹、荏田、伊勢原、矢倉沢へ至り静岡方面に達した。この道は丹沢の大山詣りの道として知られ山頂の阿夫利神社には雨乞いの信仰も集め、五穀豊穣や商売繁盛を願う人々でにぎわい、大山道、大山街道と呼れてた。相模川でとれた鮎や秦野の煙草なども、この道を通って江戸へ運ばれた。街道の商人達は江戸後期から製造業と卸・仲買いを営むなど驚くべき繁栄をとげていく。
正確には、大山街道は矢倉沢往還という。街道とは、道中奉行所が管轄し、運輸・通信・休泊の機能を備えており、その代表例が東海道。往還とは、公用旅行者のため伝馬・人足を備える継立村(つぎたてむら)があり、休泊の機能も備わっている。二子・溝口村は、1669年に継立村となった。道はこれ以外のものをさすといわれている。
二子・溝口村が継立村となった後、久地・諏訪河原・久本・末長の4ケ村が二子村の、北見方・上作延・下作延・3ケ村が溝口の助郷村になり、継立村で用意する伝馬・人足が不足の場合は提供することになった。これらは農民がつとめ、負担であった。また、農作業をしながら出役の時間を知る方法として、1834年には光明寺の了解を得て、代官所へ同鐘を時の鐘として使うことを申し出て、許されている。
赤坂御門から大山までの地図
多摩川より溝口方面への航空写真(1941年(昭和16年):家の密集している街道が大山街道であり、街道に家があるだけの状態だった。当然、国道246号線はまだない)
《私の商店街会長》
私は2000年度から商店街会長を引き受けざるを得なくなってしまった。私より1歳年下の商店街会長OMさんが重度の脳出血で急逝したのである。その時私は総務部長だった。規約の改定しながらの諸々の雑談の中で「総務が弱い、総務とは該当部署がない新しいこともやるもの、今の企業の総務は労務管理に成り下がっているところが多い、今のインターネット時代商店街で電子メールもなく、ホームページもない、総務は”総て務める”だから総務なのだ」などと言うものだから、それならばお前がやれとなったのである。1997年のことで、私は1998年度から総務になった。
会長の告別式の時に、当時筆頭副会長だったSMさんに「困ったね」と言うと「貴方が(私に会長に就任して欲しいと)言いたいことはわかるのだけれど、俺もこれ以上は引き受けられないよ」と返ってきた。他の人もいろいろな役をやっていて、無任所同然なのは私だけだったのである。彼等は、すでに多忙なある役を引き受けていたのである。それで、商店街で具体的に動きはじめてから3年にも満たない私にお鉢が回ってきてしまったのである。妻からも「おやめなさい」と言われたのだが、そうはゆかなくなった。
《行政から》
1年ほどした2001年春だったと思うが、知り合いの行政マンMA部長が訪れてきた。あるいは電子メールで連絡が来たのかも知れない。「商店街の活性化をやりませんか」と言うものだった。私はこの言葉を聞くとむかつくのである。その理由はどこかでお話しできるだろうから、ここでは先に進みたい。いろいろ会話し心知った人であるので、この時はむかつきはしなかったが「(我々のような都市部の)商店街の活性化は無理、街道の環境の改善」で良いなら、と応じた。それで良いという。そこで早速、役所は政策課題研究の一つのテーマとして「歴史を生かした大山街道の活性化」というテーマを立ち上げた。
《アンケート調査による活動報告書づくり》
活動報告書づくりのために、「まち」の人にアンケート調査をしたいと言うことだった。ここで私は私以上の年齢の人は調査の対象にしなかった。20〜40代を中心にして、昭和一桁生まれはすべて対象にせず、役所に被調査者を伝えた。そうでもない年寄りも居るのだが、大方の年寄りは「昔はこうだった」というような解雇や時間つぶしばかり、これからの事を考えるのだから、そんな人は避けてと言うことだった。還暦になったばかりの私も被調査者には入らなかった。
役所の若手によりまとめられた報告書が作成され、発表会が持たれた。また、地域ではその報告書を元に懇談会が持たれた。2002年の3月のことである。
報告書で印象的に覚えているのは、調査されたこの街道の被調査者、特に若い人、は歴史はともかくとして、歴史的な建築物の保存には拘っていないことがわかった。
《役所からの活動継続の打診と準備会合》
これら一連の活動に段落がついた2002年の春、またMA部長から「今回の調査に基づいたものを更に推進する気があるのか、あるならば役所としても可能な限り支援したい」と問合せがあった。直ちに「勿論だ、役所は報告書をつくって終わりというものが多い、そんなことなら最初から協力ししていない」などと言ったかも知れない。MA部長の方で予算などの手立てをしてくれた。こんな活動を推進するにもいろいろな経費がかかる。特にコンサルタントなどの費用は重要だ。人件費同然で結構なお金がかかるが、細った商店街でそのようなお金はない。
2003年度から予算が習得できることになり、2003年度末から「大山街道活性化推進協議会・発足準備会合」が開始された。2002年の秋口から私はSMさんに御願いをしていた。「このような協議会が出来る、是非つくり街道の改善に向かいたい。その委員長に就任して欲しい、委員長は人格者で全体を和で引っ張る人でないと駄目だ、”お前手伝え”と号令をかけられる人でないと駄目だ、その点ではよそ者の私は駄目だ、私には街道の建物セットバックという悪役に回る、貴方を委員長にして絶対に梯子ははずさない」というものである。こんなことでSMさんから了承をいただいて、発足準備会がスタートした。発足準備会は10人ほどだった。私はいやだったが何人かの年配者も入ることになったのだが、委員長は若い人SMさんに引き受けていただければと常に臭わせ続けたので、年配者からしゃしゃり出る人は居なかった。作戦通りである。多分「彼なら仕方がない」と言うことだろう。
委員長が決まり、「まち」の人、特に若い人、をピックアップし30人程の委員を選んだ。中には年配者も居たが、もう年配者ペースとなる要素は残っていなかった。年配者も活動の雰囲気や内容から、後で徐々に消えて行くことになる。
コンサルタントの選定にも立ち会った。一番地域密着型・現実的なプランを持ってきたコンサルタントを選んだが、この時に「私達を使えば国から予算を持ってこれる」などといって、とんでもないまちの計画を丸写しにしてきたような馬鹿コンサルタントも混じっていたのにはびっくりし呆れた。
《大山街道活性化推進協議会の発足》
このようなことで協議会が2005年5月に発足した。発足後直ちに、コンサルタントのリードで「問題点の整理とテーマの設定」がお定まりのコースで行われた。最近は「まち」の人も方法論には慣れてきたのかも知れないが、とかく「まち」の人は方法論を持たないから「整理や記録なしの懇談に終始し、同道巡りで結論が出ない、出ても遅い」ことが多い。出ても何倍もの時間を必要とする。これはサラリーマン育ちの人には閉口する。
最初の1年はあまり意見も言うことなく、様子を見ていたら問題点整理などから「大山街道でイベントをやろう、まちの紹介に力を入れよう、安全と景観を考えよう」と3本の柱になってきた。こんなことで、初年度は大山街道フェスタを2月に実施し、街道の紹介マップを作成することになった。中心となる「まち」の商人達は下記にように結構忙しい。
《景観形成が消えそうになった》
新年度の2004年度に入り、課題の再整理をコンサルタントが実施してきた。それを見ると「安全と景観」がサブテーマに格下げされている。そこで、異論を唱え再度格上げさせた。同時に部会名も付けずに活動を続けるのは駄目と問題提起し、ここで「イベント部会、観光部会、安全・景観部会」の3部会を正式に発足させた。