縁ある音楽家の方々、関係者の方々
私は、音楽ホールは不動産賃貸と言うものの一環として建築した。何とか銀行に返済する収入だけあればよい、人件費は基本的に家族の無償奉仕でよい、と思って居た。ホール規模も140席ほど、演奏会をやっても、それなりに手間はかかる、小ホールであるし地域柄から考えても、高額な入場料では行えない、ホールも減価償却などを考えれば実質は赤字であり、演奏会は現金勘定で結果的に赤字にならなければ幸いと考えなければならない。
こんなことで、有名な演奏家をお招きするのも余程のご理解やご縁がなければ実施できない。そんな状況にもかかわらず、いろいろな演奏家の方々のご理解により演奏会の開催を細々と続けている。そんな中から一部の方との
荘村清志さん
ある方にホールを発表会で使っていただいているとその時勤務していたMさんが「荘村さんが来ているよ、応援演奏をやるらしい」と言って目玉をくりくりさせながら事務所に戻ってきた。そんなに気軽な方なら演奏をお願いできるのではないかと思ったのだ切っ掛けだった記憶がある。事務所経由でお願いすると即お引き受けいただけることになった。当ホールを一番多く訪れている演奏家である。夏などはポロシャツ一つに、ギターを担いで起こしになる。ある時などは、これから近くの仲間と飲み会ですなどとお帰りになる。仲間は「彼はアル中ですから」などとからかっている。こんな方である。
当初お招きしたときにお聞きしたのだが、
- お父さんは大学時代にプロになりたいと思ったが、家業の継承でその道を歩めなかった。
- それを息子さんの荘村さんに託した。小さい頃から厳しく指導され泣き、洗面器で顔を洗っていた。
- 中学卒業後、スペインのイエペス先生に弟子入りし(させられ?)、まだそんな年齢なのに演奏会を終え、夜行列車に乗り次の演奏地に向かうなどをやっていた。
などをお聞きした。
近場の方に、ギター好きの息子さんが居て、荘村さんがやっていたテレビのギター教室を見続けていたのだが、海の事故で植物人間状態になり、何年かの闘病生活後に亡くなった。その方の親が、是非息子の供養のためにギターにサインが欲しいとお願いに来られたのだが、気軽に応じていただいたこともある。
舘野 泉先生
先生は1941年生まれの私より5歳年長である。この方だけは自然に先生と言いたくなってしまう。お越しいただいたのは妻の友人が先生のお弟子さんだったからである。恐る恐る妻の友人を経由して打診させていただいたところ、開催が決まった。2004年のことである。春に演奏会を実施した。符めくりは娘に、花束贈呈はまだ3歳ほどの孫にやらせた。よい我が家の記念である。演奏後短時間の時間を持ったが、先生は私はこれが一番好きと「一番安い芋焼酎」を所望された。演奏が終わると先生は汗びっしょり、でも「私は暑い方が好き、この方がよいのです」とおっしゃっていた。でも妻とは「先生ちょっと太りすぎ」などとも話していた。寒い国だから、少々肉付きがよくなければつらいから仕方がないかも、などとも話していた。
終了後しばらくして、秋に外国から女性チェリストを招くので1回ゲネプロも兼ねて、ここでやりたいと打診され、喜んでやらせていただくことにした。先生からも聞いていたが「生まれて数ヶ月にもならない子供を籠に入れ、外国まで演奏に出かけるようなパワフルな女性」だった。
この時に「家が工事中で練習ができない、ホールを融通してもらえないか」と先生からお聞きし、これも喜んで融通することにした。先生は「私達でもなかなかホールでの練習は出来ないのです」とおっしゃっていた。練習日に先生は一人でブラリと訪れてきた。あいにく当方の休日なので、十分なお世話もできず、ホールを開けたところ先生は1時から6時頃まで一人で練習をされていた。この時だったろうか、初回にお越しいただいた時と、この練習時に「何か以前の残響と違う」と言われた。練習だからと私が残響板1枚をセットしていなかったのである。セットをすると「これで以前と同じになった」と言われた。一時訪れるホール、半年も経過した後、先生の年齢も65歳で、この感覚にはビックリ仰天した。
練習も終わり、妻が御茶を出し、先生とこんな会話をした。
- 《私》是非長い演奏活動を!(先生65歳)
- 《先生》白人の人でも70歳を越えてやっている人は少ないんですよ。
- (先生は譜面を見ながら演奏する。その理由をお聞きしたわけではないのだが、話の合間に、)
”若い頃覚えた曲には譜面を見なくても絶対的な自信がある。しかし、そうでない曲には不安がある場合がある。不安を持ちながらの演奏ではよい演奏が出来ないので譜面を見る。大体、他のほとんどの楽器は譜面を見ながら演奏しているのに、一部楽器だけはそうでないのは不公平ですよ”とニコニコしながら話されていた。
とこんな会話だった。先生が、ヨーロッパでの日常的な会話で日本語が頭に浮かぶことはないが「お金の勘定だけはどうしても日本語で頭が回ってしまう」などと笑いながら話されていた。
年が明け、正月気分も抜けきれない頃、義弟が「舘野先生が倒れた」という記事を見たと言ってきた。調べると本当だった。2ヶ月程前にこんな会話をしたばかりであったので愕然とした。妻が早速お見舞いの手紙を書いた。1年か2年ほどした後だったが、先生から左手で書いた手紙とご自身執筆のサイン入りの本をいただいた。車に乗る頻度は少ない私だが、その2年後位のある時妻と車に乗りラジオを聞いていると、先生の演奏が飛び込んできて復帰を知った。素人の私には、完全回復と思えたのだが、左手だけの演奏だった。度々報道がなされており、先生もお忙しそうだから、しばらくはこちらも、それ以上のお声掛けはせずに静かに遠慮していた。
そろそろ先生も諸々落ち着かれたかも知れないとお声掛けをしたところ、また2008年にお越しいただくことができた。出迎えに行こうかなどと心配していたのだが、先生はこれも訓練ですからとアルミ製のバッグを左手で下げてお越しになった。もう70歳を過ぎていたはずである。その後先生は75歳を過ぎても演奏活動をしている。奇跡と言うよりは強い精神力なのだろうが、ご病気や年齢などを総合してあれだけの維持をされている姿を見ると私も「まだ何か出来るだろう、頑張らなければ」と思う。
アンサンブル・ウイーン
ある方ヴァイオリンの先生Nさんが、ウイーンからお友達が来て今まで家で模範演奏をやっていたのだが、勿体ないからここでやろうかと訪れてきた。日本人のお友達と思った。Nさんは私と同じ世代の女性、その当時ウイーンに8年も留学とは相当のお嬢様だったはずなのだが、そんな気位も見せない気さくな方である。当時はお母様がプロペラ機で和服で娘の留学先を訪れていたような時代だったようだ。
お聞きするとお友達とは、留学時代のお友達、ウイーンフィル現役2名、OB1名、大学教授1名の弦楽四重奏で、びっくりして自然に「お一人で演奏会を実施するのは大変、お手伝いします」となった。この地にこんな人達が来るのは最初のことだろう。ある住宅メーカーがスポンサーをしており、宿泊費などは良いと言うことなので、地域で廉価な演奏会ができた。初回は、突然訪れた人が多く困っていると、舞台に人を乗せても良い、来た人も階段に座っても良いなどとてんやわんやで、せいぜい150のキャパのホールに210人もの人が入ってしまった。
何回かまでは、スポンサーが諸々配慮してくれたのだが、事情も変わりそうも行かなくなってきた。弦楽四重奏だがチェロではなく、フルサイズのベースがあり、大きな乗用車でないと入らない、それで車1台一杯になってしまう。ある時など葬儀屋のマイクロバスをチャーターして送迎したところ「これはよい」と喜んでいた。
第1バイオリンはGさんと言う方だったが、ある時沈んだ顔でホールに来た。前日の札幌の演奏会で約200万円で買った新品の弓が折れてしまったのだそうである。気の毒に思うと同時にこの会場でなくてよかったなどと思った。ある時、体調がすぐれないとNさんからお聞きしたのだが、その1年後位に亡くなった。癌だと思うのだが聞いたことはない。このNさんは、私の娘に「今度”ます”をやろうか」などとからかうような気さくな方だった。今での彼の繊細な響きは耳に残っている。Nさんの後はコンサートマスターのHさんに代わり、1回当ホールにお越しいただいた。
こんな演奏会は、1995年から2005年にかけ6回続いたのだが、もう諸々の事情で無理だろう。
大谷康子さん
お声掛けし、お越しいただいたのは2004年頃だったろう。その後2012年にもお越しいただいた。演奏家としては勿論だが、楽団のマネージメントやエンターテイナーとしてもすばらしい方で、総合力の塊のような方である。
ライブ系の演奏会
数回実施した経験から、これは原則実施しないことにした。小ホールでは無理と判断したからである。経費や手間がかかるかである。どんな経費や手間かと言えば、小ホールでの演奏会などでは予算も限られている。演奏家への謝礼以外に、音響師への謝礼がかさみ、また音響調整のために時間や手間がかかり、無理と判断したからである。
加えてこんな疑問もある。音響師による音づくりは補正程度ならまだしも、それによって音声を作り替えてしまうようなものはいかがなものかという疑問からである。「美空ひばり」の音声評価をある音響師がテレビ番組でしていて「このように声(音程)がぶれない人は見たことがない」と言っていたのを見たことがあるのだが、本当の歌はそうでなくてはならないという疑問からである。
調律師のFさん
ある時Fさんの奥様が、ご自身の発表会開催のために当ホールを訪れてきた。丁度妻が居て「あ!先生」とビックリしていた。娘が一時弟子入りしていた先生だったからである。
奥様はその半年ほど後の日程を予約してお帰りになったのだが、日程の2ヶ月ほど前に旦那さんである調律師のFさんから「妻が亡くなったので、私が発表会をやる」と連絡が入った。勿論ビックリしたのだが、奥様は当ホールを訪れたときには、スキルス性の胃ガンの手術後間もなくだったとのことであった。
こんな残念なご縁で、その後Fさんには調律のみならず、いろいろと当方ールの諸々のコーチをいただくことになった。
当方ールの演奏会はご縁基本で実施している。ここまでの20年間で何十人というトップまたはトップクラスの演奏家にお越しいただいた。演奏家の性格は良くも悪くもいろいろな関係者からお聞きすることがある。しかし、私達の経験では嫌な思いをしたことはほとんどない。当日ホールを訪れてみると、家族経営で家族基本で準備から当日運営までやっているのをお分かりいただくからかも知れない。
お客様から、こんな事を言われてがっかりすることも希にある。「ホールで儲けて、演奏会で儲けてよいですね」と言われることである。まあ、現実を知らない人の言うことと受け流している。逆に「こんな小ホールで、このお値段で、有り難い、大変ですね」と言われることもある。これは嬉しいし、また次への意欲が湧く。