開業後の諸々 ソフト面
闇雲に開業してしまったのだが、ソフト面でも多々あった。
- 《有り難い雇用者》
ビル竣工の半年前ほどに知人の紹介で訪れてきた人が居る。MTさん60歳である。ホール開業直後から勤務を開始してもらった。有名校出身の高学歴の人、広報系を職としていた人だった。
来てもらうと音楽系のいろいろな知識に驚かされた。音楽好きである、曲を知っている、音楽家や作曲家知識もある、清掃知識もある、こまめである。などである。なぜ、こんな人が当方に来たのか?それは卒業後いきなり清掃会社を立ち上げたが失敗、その後ある中堅企業に総務や広報系で勤めていたが乗っ取りなどに合い嫌気がさして退職、その後は地域新聞社に勤務、そこも経営悪化で退職、と言う人だった。専門能力は高いが、人生設計のバランスには欠けている人だったようである。人物は良好な人だった。まあ、子供のまま大人になったような人でもあった。
- 《音楽会の開催》
- 私はホールは「演奏会を開催するために設けたものではない」。あくまでも、世の中に潤いをと言うことと不動産賃貸事業との整合を取ったものである。音楽会の開催が難しいことは学生時代に下手なブラスバンドに入っていたから知っていることでもある。手間も大変で運営に追われてそんなところまで手が出せない。ところが、妻は音楽会開催を「ホール宣伝になる」と主張していた。
- ここに、MTさんが現れた。彼はそんなことが出来る可能性があることを知り大変喜んだ。有頂天になったとも言えるだろう。まあ、彼が居るならばと私も推進を認めることにし、彼と妻を中心として積極的に行動を開始した。そんなことで音楽会の開催がはじまった。
- しかし、私は開催の頻度の制限をしていた。事業の全体バランスを狂わすほどの開催は出来ないからである。そのために、彼は別会社をつくりやりたいと言ってきたので、それも許可した。「こちらが認めないものは、その会社で勝手にやれ」と言うものである。出資金も少々協力してあげたが、無理なのはわかっていることで、消えても良い個人のお金としておいた。
- 何で制限をしたのかと言えば、
○ 当然のこととして音楽ホールの永続を考えなければならない。
○ ある人が居るときは出来る、居なくなったらできない、のように大きな波はつくりたくはない。
○ 他に仕事は多々あり、私から観ると、音楽会開催は重要度は低いものでそこにエネルギーは費やせない。
と言うものである。
- 知識あるMTさんであるから、開催の大変さは知っていたと思うのだが、しばらく観察しているとそれは趣味的な範囲であり、決してそうではないことがわかった。何故こんな演奏家を招いたのか、と思うようなものを数回開催し赤字を出し、出資金も消えて、2年も満たずこの会社は実質消滅となった。この時期1年間に10回以上の開催したこともあった。
- その後は、無理はせず演奏家とご縁ができたときに開催というペースになった。1990年代後半のことである。
- 《愛好クラブと情報誌》
- MTさんの提案だったかは記憶にないのだが、演奏会開催と同時に「愛好クラブをつくろう情報誌も出そう」となった。
- そこでクラブをつくった。しかし、会費をいただくと、演奏会開催がこちらのノルマになりつらい、こちらは音楽事務所ではない。しかし、無料ならば情報誌などお送りしても見もせずゴミ箱行きも多いだろう。そこで郵送費として年間1000円をいただき、情報誌を季刊でお送りすることにした。送り先は会員とホール利用の方々である。
- ところが、直ぐに会員は200名以上となったが、何年経過してもその範囲は超えない。入る人も居るが、やめてしまう人も居るからである。それには期待するほどのものが開催されないと言うこともあるだろう。
- こんなこともわかってきた。
○ 当ホールを使用する先生方は自分のことで手一杯、このホールに音楽会を聞きに来るような人は希である。大きなホールの有名な音楽会などには行くが、当ホールのようなものには興味がない。
○ 聴衆の好みはピアノ、ヴァイオリン、弦楽など様々に別れる。140名ほどの収容とは言えども、この席を埋めるためには1000人ほどのクラブ会員が必要だろう、
などである。しかし、これは経験から非常に難しいことでもあり、仮に1000人を達成すれば、必ずしも主要仕事ではない当方が大変になる、と言うことである。
- それでもMTさんが居る間は発行を続けていた。MTさんが事情で8年間の勤務後退職したのだが、この後2年ほど私が発刊を続けていたのだが、意味がないだろうと言うことで停止しすることになった。
- その後は、音楽会の開催の
- 《情報誌》
- 《》
- 《駄目な雇用者》