経験から(生産性)

 私の活動の基本 【はじめに】  あまり多くの考えを持っていても実行はできない。何事も重点指向だ。必要最小限のものをきちっと守れば、その他のことも自然にかなりをカバーしていることが多い。
私の行動の基本は以下に述べるごとく簡単で当たり前のことである。こんなことを心掛けているから、平均的な人より多少はカバー範囲が増えたり、仕事量をこなしたり、致命的な脱線もせず、ここまで来れたのではないか、と思っている。しかし、これからも多くの課題・問題がある。
 ただし、アイディア・事業センス・企画力の問題は全然別問題であり、こちらの方は私は不得意だ。それらを磨き、以下のようなことにも留意してセンスも実行力もバランスのよい人生を自分で構築して欲しい。以下に示すものはほとんどが方法論(methodology)または精神論(spiritualism)ともいうべきもので、集団活動の基本であるだろう。

タイトル本文
【生産性(品質・納期・コスト)】 《いろいろな方法論》
 如何にして何かを達成するかという「方法論」にはいろいろなものがある。ある目的のためにも、類似の方法論、基本は同じという方法論がある。方法論は、道具であり、自分の合うものを見つけることである。
 私の上司に方法論好きがいて、ある年ある方法論の事業部内への導入に入った。これは納得できた。ところが1年後にまた別の方法論の導入を指示してきた。そこで、今導入している方法論と基本的には同じである、今導入中の方法論は未だ現場に定着しているとは言えない(大きな組織と言うものは定着までには結構時間がかかる)、と反対した。新しい方法論の導入は見送られた。方法論は、自分や自分の企業にあったものを必要最小限に導入すべきものである。厳密に考えれば、方法論が異なるということは結果にも差が出ることである。しかし、その差が微小ならば方法論の変更はすべきではない。
 異なるコンサルタントを同時に雇うと、こんな事が起こる。その場合は、自分達で使い分けることである。自分達が駄目ならコンサルタントもまともには使えない。
《整理・整頓》  仕事は、他人のものを参考にする・前任のものを参考にする場合もある・自分の過去にやったものを参考にする、など多々ある。多くの場合、その時の自分の創造はほんの一部だ。多くの仕事は再利用だし新しい仕事と言っても、内容の多くには過去のものが含まれる。整理・整頓が悪いということは、再利用のときに探すのに手間取り仕事が遅く、あわてて作り直せば吟味されず質も悪くなる。私の場合、1日の内の何分の1かを整理整頓に使っている場合がある。資料の整理は、将来への生産性の向上である。パソコンに向かって入力をしている。妻はそれをパソコンマニアというが、自分の将来の生産性、次の世代への情報や生産性の引継などに必死になっている面もあるのだ。
 昔、簡単なことなのに資料を1週間も探している馬鹿な人がいた。簡単なことなら資料を探すより零から作成した方が早いケースもある。そんなことから、それ以降の私の習慣と原則は、2日ほどで参考資料なしで再生できるものは保管にはあまり留意しない、それ以上期間のかかる資料は保管に留意するという習慣となった。とは言いながら、最近はパソコンの中に多量のデータを蓄積できるようになった。この結果、保管量が安易に増し、どこにあったか探すことも多くなった。しかし、基本は守っているつもりである。
 自分のパソコン内部の検索には、ブラウザを使うのが便利である。簡単なホームページなど作成できる人ならば、データの分類などを図書館のごとくしっかりと階層化・構造化し、ブラウザとリンクで目的の場所にたどり着けるようにするのは便利である。パソコンの検索機能も豊富にはなったが、これだけを頼りにするのは中途半端である。
 もう変えることはないだろうが、私はパソコン内のディレクトリーなどの大幅変更を過去に3回ほど10年おき位に実施している。勿論、ブラウザの方もである。何故ならば10年もすれば、事業も変わりという具合で、構造が古くなるからである。
《人を知らない人は本や資料が多い(場合がある)》  人を知らないと言うことは不安だから自分でも理解できない資料などを抱える。結果的にほとんど役にたたない。人を知る人は、最適な相手に援助を願う。極めてスムーズに事は進む。昔、私の専門では手に負えない文献などを受け取ったときは、知っている専門家に届け(専門家も知らず喜んでもらえるときもあった)、解らないときは聞きにいった。要領よくかいつまんで教えてもらえた。有能な人を知ることは重要だ。当家事業では専門家を抱える余裕はない。従って、いろいろな人と接点を持つよう心掛けることだ。
 こんな風に思うようになったのも、こんなことからだ。ある先輩が海外転勤になり、資料を預かり管理して欲しいと頼まれた。彼が転勤してから資料を見てみると、技術が古くて使い物にならない資料ばかりであった。何でこんな資料をと思いながら考えてみると「人を知らない」だった。悪いが資料は大方廃棄してしまった。こちらだって転勤があるかも知れないし、使いもしないような資料を倉庫代までかけて保管しておくほど会社にも余裕はない。数年後、先輩が帰ってきて「資料はどこに」と言われたのだが「倉庫に入れておいたが、倉庫も引越があったり整理があった(本当に)りで、私もそこまでは管理できなかった」ととぼけてしまった。実害は何もなかった。
 こんなことをしたことがある。30歳くらいの頃、課長から課内の資料整理を要求された。まず、私より若い人だけ集め、必要と思われる資料とそうでない資料を分けるように指示した。技術も変遷しているし、若い人が持っている技術と古い人が持っているものは異なる(根本は同じの場合もあるが)。若い人にとって不要と思われる資料が分別された。若い人はどんどん不要とした。今度は私より年長者に同じ指示をした。若い人が不要と思った資料はほとんど必要ということになった。そこで、それを先輩個人別に確保してもらうことにした。確保後「家に持って帰って欲しい」といって持ち帰らせた。本来ならば会社資料を家に持ち帰ることは規則違反なのだが、漏れてもどうと言うことはない時代遅れのものなので、規則など無視して実施してしまった。その後実害を聞いたことはなかった。課の資料は半減した。
 そもそも難しい資料というものは、それに携わった人だけが完全に理解できるものであり、周囲の人は表面しか理解できない場合が多い。その範囲なら後任の推測範囲である。であるから、何か事が起こった場合、後任で対処できないなら、対策の近道は昔の人でもその人を発見することであって、資料を発見することではない。おおよそ、設計図に示されているものは結果であって、なぜこうなっているのかという記述ではないのである。私は今でも40年前の設計図(装置も技術も死んでいるので何の意味もないが)は概略覚えている。
《文書の重要性》  人は忘れるものである。また、口頭というものは曖昧なものである。喋っている人も、理路整然と喋らないし、聞く方もそれを100%理解することは少ない。
私は、極力文書(メモであっても)で説明し、それを残し、経過も含めて文書を残すようにしている。忘れても大丈夫だし、見直すこともできるからである。技術者時代は、社内外で公式の会議をやれば、どんな会議でも議事録は100%つくらなければならないものだった。一般的な人は、こんな習慣はなく問題である。
 零細企業などの親子企業は年代のギャップがある。一緒に仕事している環境ならまだよいのだが、息子が外野時代は雑談的に伝えても所詮上の空で頭には残らない。であるから文書化を心掛けている。突発事故などで私が機能不全に陥っても何もないよりは全然よい。
 継続的な会議の場合、私は関連しそうな前の資料も持ってでかける。ところが、地域などでは手ぶらで来て、もう一度配って当たり前というような人がほとんどだ。そんなやつに限って、事前配布した資料など見ていない。コピー代も手間暇もかかる。大手企業経験者はほとんど関連資料を持ってくる。
《文書は極力早く整理せよ》  これを怠ると結局しっぺ返しをくらい、将来の生産性を落としてしまう。文書は極力来た途端に目を通し、重要な部分には見返すときに見れば良いところをマークする。こんなことをしておくと見返すときも楽だ。ただし、文書が来る度に整理はできない、また新しい分類になる場合もある。こんな場合のために一時的な保管場所(ファイルなど)を用意しておく。この保管文書が後述の分類変更のベースになる。
《計画的な会議開催》  継続的な会議開催の場合、開催者は一連の会議を終えるまでの計画を持つことである。この程度の仕事なら、初回はこんな会議、2回目は・・・、第3回目は・・・などである。開催者がこんな計画を持ち最初に提示しておけばスムーズに事は進む。そうでなければ行き当たりばったりになり、会合数が増したり、中途半端に終えてしまう。
《分類は変わる・分類は多次元だ》  仕事も変遷する。社会も制度も変わる。保存資料の重要度も変わる。一般的に文書というものは時間の経過と共に陳腐化し非重要となって行く。(秘)などいっても後になって見直すと、ほとんどはそうではなくなっている。こんなことで分類というものは本来常に変化しているものである。私は、パソコンの中にほとんどの文書を作成する。パソコンの中の分類も1〜2年に1回程度は変えている。文書ファイルもそうだ。使いもしない資料を後生大事にいつまでも机の近くに保管しているのは駄目だ。机周囲とは行っても場所代がかかっている。捨てられないものは、倉庫に移し、いつでも出せるように整理しておくことだ。パソコンは私の書庫である。随分と文書保管では楽になっている。
 文書整理の方法で、昔コンサルタントから教えてもらった方法を示しておこう。ただし、大きな仕事の場合である。
    大きな仕事の場合、大方下記のような文書が作成される。
  • 検討資料(提案などの細かな資料) この前に起案書などもある。
  • 検討会の議事録(検討の結論)
  • 検討結果のまとめ資料(上記の総まとめ)
  • 仕様書(設計書への指示)  建築の場合は設計士が書いた設計図
  • 設計書(設計図)      建築の場合は工事施工者が書いた「施工図」もある。
 この資料を、ただ単に時系列で保管するのではなく、それぞれに分類して別ファイルで保管するのだ。設計図により製造された製品が安定状態に達し、ある年月を経過したら、まずばっさり「検討資料」を廃棄する。さらに年月を経過したら、議事録を廃棄する。次ぎの廃棄はまとめ資料→仕様書、製品が世の中から消えたら設計書を廃棄というものだ(歴史的な価値で残すものは別として)。何年、何十年後にこんなものを整理して廃棄する時間などをとろうとすることはないだろう。このように段階的な廃棄の準備をしていないから、製品が消えるまで全部を保管、その結果資料倉庫が膨大などとなってしまうのだ。保管の時に、このような整理をしておけば何段階かのバッサリ整理が可能で、倉庫もやたらには増えないのだ。
 分類は多次元だ。ある本があるとする。英語の本だったとする。内容は小説だ。子供の本である。
こんな時に、どのような分類にするのかは、まず考えなければならないことだ。ある家では、まず大人・子供の大分類から本棚の置き場を考えた方が良いかも知れない。別の家では言語別の置き場とした方が良いのかも知れない。本の増加に伴って細分類を考える必要も出てくる。子供が成長したり、独立すれば分類は変えなければ不便になるだろう。
 このように分類は極めてダイナミックで多次元なのである。パソコンの中のファイルも同じである。ある本屋で、昔ハッと気付いたことがある。同じ本が、あちこちに置いてあるのだ。品質管理の本を買おうとしたときだが、品質管理のところ、経営のところ、数学のところなどである。勿論、売れ筋の本であるが、こんな風にしていた。場所はとるし管理も大変だろうが、こんな工夫をしていたのには驚いた。
《情報の共有化》  いろいろな人が共同で仕事をする場合は、情報の共有化に留意することが生産性の向上・トラブルやミス回避に重要なことである。また、ある人が不在でも、別の人がカバーできれば、お客様からの好印象を持たれる。お互いに異なる仕事をしている場合、100%のカバーはできないが、多少でもカバーできているならばすばらしいことである。情報の共有化が良好な組織はよい組織である。
 例えば、資料をファイルに入れる、名刺などをもらう、などの場合がある、こんな場合も「どこに入れれば共有化に一番よいか、個人のファイルに入れるのか、共有のファイルに入れるのか」こんなことを常に考えることが重要である。人が電話でやりとりをしている。そんな時にも必要に応じて適当に聞き耳をたてるべきである。せんさくするのではなく情報の共有化のために。個人での情報の握りは、一見個人には良さそうな気がする。とてつもない発明ならともかく、一般的な情報範囲ではそうではない。情報の共有化の欠如から会社が後退し、その結果個人の処遇も悪くなるのである。
 息子が会社に入ってくるので机の配置を変え、文書ファイルも移動した。情報の共有化と双方からのアクセスをし易くするのが第1目的である。
《大には大の、忠には中の、小には小のやり方がある》  大きな会社には直接生産には関係しない間接員がいる。生産現場とは別に、総務・経理・経営企画・品質管理などなどのスタッフや間接員などである。会社の大小を問わずマルチ能力がある人間は重要だが、大きな会社になればなるほど専業人間も増えてくる。会社は規模や内容などでやり方は違ってくる。
《人とのやりとりは極力文書で》  今の時代は便利だ。ファックスも電子メールもある。お互いに忙しく不在でも、ロスなくきちっとやりとりできる。文書化する以上、考え吟味するので要領よく相手に伝わる。自分の記録にも残る。相手不在なために何回も電話、その間仕事中断は愚の骨頂だ。
 「俺はファックスしか見ない」と言う人間がいる。郵便などで文書送付しておくと、返事がない。そこで送付者は仕方なく、間際になってファックスする。この人間は、ファックス以外は重要でないと判断しているのだ。この人間は人に二度手間という迷惑をかけていることを自覚していない。
 最近は電子メール多用である。固定費内だから唯同然、机から送れる、相手がいなくてもよい、返信でもこちらが居なくてもよい、などなど大きなメリットがあるからである。私は、電子メール利用者以外は原則として相手にしないことにしている。
《前倒しと枯らし期間》  スマートな人は、何か課題が発生すると余裕期間がたっぷりあっても、時間があるときに手を付けはじめ、ある程度はやっておく。頭の熱い内に集中的にやっておく。このように心掛けている人は、突発的なことが発生しても、それが割り込む余裕が出てくる。また、新たなことも入れやすい。何も発生しなければ、最後をのんびりしていればよい。そのような人は、のんびりしていても先の施策を考えはじめるだろう。また、人間とは不思議なもので潜在的に考えているという習癖を持っている。予め手を付けておくと、何かの拍子に手を付けたものが出てきて、あそこはまずい、などが思い浮かぶ。仕事の精度は向上する。いわゆる「枯らす期間」である。枯らす期間は必要である。昔、トイレの中でミスに気付いたり、夢でミスに気付いたりしたことがある。私は生来土壇場人間だったのだが、少なくとも仕事に関しては、会社への入社から徐々に変わっていたような気がする。
 シナジー効果(synchronous energy;外人の造語だろう)というものがある。皆で考える方がエネルギーが合体され効果がある、ということである。皆で検討していたり、雑談していたりの中から良いアイディアや解決策が出てくる。
 昔、こんなことがあった。あるシステムの開発で、ある担当者が問題を抱え1ヶ月ほど解決できないでいた。私は技術の細かいことはわからなかったが、責任者として気になるので担当者を呼び、私にわかるように易しく説明するように求めた。そんなことをやっている内に、係長・別の担当も集まってきて、4人で話しはじめた。1時間もしないうちに、問題を抱えている担当者が「わかった」といって、それで終わってしまった。私は係長に「細かな技術のわからない私が偶然担当者を呼んで1時間で解決してしまった、係長として・チームとしての行動ができていない」と注意した。よくあることなのだが、機械を設計し、製造し、テスト段階に入る。テスト段階でいろいろと問題が出てくる。こんなときに当てずっぽうや直感で直すということは、別のところに問題をつくる場合が多い。機械のテストを中断し、原点に立ち戻り、衆目の知恵を集め文書上で考える方が問題解決が早い場合が結構多い。これも「急がば回れ」だ。根本に戻っての問題解決は、別の問題をつくりにくい。
 ある建築工事で、工事責任者はこんなことをやっていた。下請けに2日間ほどの仕事なのに、1週間の期間を与える。最初の日に下請けは来ない。催促電話もしない。2日目に「いつやるのだ」と電話を入れる。3日目に、あわてて下請けがやってくる。4日目で終わる。2日が残る。儲かったと言って、工事責任者は2日ほど計画を前倒してしまう。こんな風にしてどんどんと前倒し、建築の最後の段階では、のんびりしている。枯らす期間もあるので建物の品質もあがる。上手なリーダーというものは皆こうなのだ。
 「自分の限界まで知恵を長期間振り絞り続けるような仕事」を経験する人は、一部かも知れないのだが、不幸にもそのような局面に出会わない人は、こんなことを心に強く留め、いざとなったら「急がば回れ」を糞度胸で実行することだろう。それ以外、早道はないのだから。いい加減な人は「先楽後憂」、リーダーたる人は「先憂後楽」をでなければならない。そうでないと、部下が不幸だ。
《若いときの失敗は小さい、歳を経てからの失敗は大きい》  若いときに具体的な仕事を泥臭くやってきた人は、小さな失敗を多くしている。上が馬鹿でなければチェックしているはずだから、大きな失敗はまずないだろう。失敗がどのように被害を与えるかも知っている。それらの人は、昇格しプロジェクトをマネージメントするようになって大きな失敗はしない(逆に慎重になり過ぎると発展を阻害する場合もあり難しいことだが)。若いときに懲りているからである。
 会社の育て方も悪いのだが、エリートなどと言われる人などの一部には具体的な仕事もしないまま、浮ついて昇格してしまう人が居る。会社に入った時の色が、仕事の成果などは関係なく、そのまま昇格に結び付くような会社もある。そのような人が結構高い地位で失敗を犯す。泥臭い経験がないからである。地位が高いだけに、大きなプロジェクトをやっており、会社を揺るがすような失敗になることもある。こんな会社はろくな会社ではない。多少失敗があっても、難関校出身者ほど若いときにどんどん具体的なことに挑戦させるべきである。
《一時全員の人を騙すことは出来る、永久に特定の人を騙すことはできる、永久に全員を騙すことはできない、人生よいゲームをしよう》  これは言わずもがなであろう。自分の失敗を人に伝えるのはつらいことなのだが、早めに伝えることが全体の損害を少なくする。特に集団仕事の場合は、失敗を早く伝える勇気が必要だ。
 人とは多くのかかわりを持つ、かかわった人が均等に恩恵を受けられるのが、良いゲームである。何か一緒に仕事をしている、後でわかったが、彼奴ばっかり儲けていて、こっちはおこぼれだったと言うこともある。これは悪いゲームだ。こんなことでは人間関係や事業関係は長続きしない。
《面倒と言うことは大方工夫が足りないということだ》  面倒だったら面倒にならないよう工夫しろといいたい。工夫しないで面倒とだけ言葉を発し続けないことである。極限まで工夫して、それが面倒なら本当の面倒だと思うが、食べている仕事ならやるしかない。
 ただ、古希も過ぎ「面倒」と言いたい年齢にもなった。
《「おかしい」は独り言にせよ》  「おかしい」と人に対して単純に言葉を発するな。自分がおかしくないのか、何がどうおかしいか、こうしたらどうかとなど、考えてから相手にコンタクトせよ。自分がおかしかったり、勉強・知識不足のためにおかしく感じることが多々ある。「教えて欲しい、聞きたいのだが」との言葉を受け取れば腹も立たないが、おかしくもないことを相手からおかしいと言われると良い気はしない。ただし、自分の頭の中でいくら考えても無理な場合がある。その時は、人の助けを求めよ。いつ助けを求めるかのタイミングは極めて重要だ。お客はいつまでも待ってくれない。周囲もいらいらする。このタイミングを計れない人は問題だ。
 事務所でパソコン操作で難儀し「おかしい」を連発している。しばらくして「このパソコンがおかしいですよ」といってきた。そこで、調べてみると操作を知らないだけである。そこで「おかしいのは、頭だ、マニュアルも見ず、操作できないのは当たり前」と応じた。そうすると今度は半日も難儀している。今度は「マニュアルを見ていたので、努力はわかった」と教えた。こんな場合は、腹も立たない。何か機械、例えば空調機など、がおかしいときに「おかしい」と報告されると「どこが、どのようにおかしい」と聞き返す。「わからない=それ以上何も観察しなかった」と反応されると「君の頭の程度はその程度」と腹が立ってしまう。
《決まったら決定に従う》  私は、体育会系の部活という集団を経験し、会社に入ってからは多人数での集団・合同設計を経験した。集団での行動規範は「検討段階での発言はいくらでもよい、決まったら決定に従え」というものである。部活の経験のある部下はよいのだが、部活の経験もなくこれがわからない部下もいた。何回か「決まったら決定に従え」と発言したことがあった。決まったことに陰でいつまでも何か言っている人は集団には適さない。
 とはいえ、上司の指示に従わなかったこともある。ある上司とある顧客(かつ上司の学校の先輩)との間で、企業対企業の仕事ではなく、上司対顧客個人の仕事が発生しそうになり、私に参加を依頼された。最初の会合に参加してみるといい加減な考えのもとでの双方個人の色気仕事だった。そこで「勘弁して下さい」と参加を断ってしまった。上司は困って別の課長を参加させたのだが、この仕事は数年後、顧客個人が転職し中止となってしまった。色気仕事に安易に付き合うことは危険が伴う場合があることを、心に留めなければならない。ただ、付き合ってもろくなことはない。
《後でわかることがある》  ある議論を大人と子供がする。子供は、核心だけを観て筋を通して答えを持ってくる。単純なものなら、大人も同じであろう。ところが、複雑なものになると大人はそうは行かない。大人には周辺もみえている。それで周辺も観ながら答えを求める。子供の答えと大人の答えは必ずしも一致しない。これは、会社などでも経験の差などで起こることがある。ある面をとればこれはどちらも正しいと言える。子供も大人になれば逆の経験をする。そこで、はじめてこんなことがわかる。
 勉強家で頭も良い人ならあっという間にわかってしまうことが、凡人にはなかなかわからないことがある。私は電気屋だった。プログラムなどどうでもよかった。学生時代もうコンピュータに興味を持ち、その方面に進んでいるものも居た。その頃は、ハードウェアとプログラムというのが日常語だった。ところが、会社に入社してしばらくすると、ソフトウェアという言葉が出回りはじめた。プログラムとはどう違うのだろう、ということはしばらくわからなかった。勉強もしなかった。さらに、数年かかって理解できるようになった。さらに、中年になってエミュレーション(emulation)などの言葉も聞こえはじめた。シミュレーション(simulation)は「疑似」だからわかるのだが、説明をいても、今一つピンと来ない。しばらくして、そうだ、ラテン語で接頭語の「e」は「out」だから、外部で疑似することなのだ、ということで一挙に理解が進んだことがあった。語源一つでこんなこともある。
《全体を採れ》  前項と別の表現だが、部分を観ると間違っているのだが、全体を見ると調和がとれている、と言う場合もある。顔は悪いが素敵な人、どうと言うことはない建物だが周囲と調和している、などの場合である。この場合は、素敵な人や調和の方をとるべきなのだ。総合的な判断を必要とするときに、迷いが生じることがある。その場合は全体の調和をとるべきなのだ。
 私はMac派である。Windowsも持っているし希に使う。Windows派には申し訳ないのだが、Macの方が「ソフトウェアが素直で育ちがよい」と思うからである。こうすれば、こうなるだろうという推測がききやすい。
《欠如する前に補充》  多くの人は、何かなくなってからドタバタする。ちょっとした文房具一つでさえ、そのために街に買いに走るのは時間も馬鹿馬鹿しいし、何かを中断するのもいやである。何か欠如しそうになったら、頭に入れるかメモを作成しておいて、何かのついでの時に一挙に処理しておくものである。多くの人にはこの習慣がない。行き当たりばったりである。
 昔、笑ってしまったことがあるのだが、トヨタの看板方式というのを知っているだろう。自動車の製造において、その日にもっと極端に言えば、午前や午後に分けて、下請けの部品メーカーがトヨタに、その日使用する部品を届けてくるのである。組立工場に部品倉庫をおく必要もない、部品在庫もないということで、コストダウンができるのである。
 こんなことを、自社のある工場で機械的に真似してしまったのだ。トヨタのように汎用の部品を沢山使うならともかく、特殊な少数部品なども必要な電気工場でである。その結果どうなったかと言えば、仕掛かり在庫を大幅に増やしてしまったのである。部品一つがないために、ほぼ出来上がっている装置が完成しないし、試験にも入れない。設計者は自分の製品のための部品確保に飛び回り、他の人に使われないために工場に行って倉庫で見張っている有様であった。これはコストアップである。看板方式は、物量・優秀な下請け・物流・交通網などの総合条件によって成り立つのである。
 しかし、一つ歯車が狂うと全体が止まる。震災や洪水などでいろいろな影響が出ているのはご存じだろう。これは企業が知らなかったと言うよりは「コスト競争圧力に負けた」と言うことなのだろう。安くなければ買ってくれないのだから。
《人の管理は片手の指の数》  あるコンサルタントと話をしていて「人は何人まで厳密に管理できるのか」を質問した。設計という仕事をしながら人の設計を何人まで把握できるのかという疑問をそれ以前から持っていたからである。すると彼は直ちに片手を出して5人ですよ、といった。それなら感覚的に会うと言って合意した。
 とはいっても、これにはこんな前提があると思っている。頭のレベルが同じ人なら5人ということだ。例えば、工場などで一つの組織が100人と言うこともある。主任、係長、課長などの役職が階層的に管理しているのだが、なぜこんな数を管理できるのだろう。それは、作業が単純なほど管理できる人数は増すことができるということである。ある時、事業部門の重役から、技術部門に対し「30人以上居なければ課としない」と言う命令が出そうになった。課長をやたらに増やすことには反対だが、以上のような考えもあったので「課を設けるかどうかは内容によるもので人数によるものではない」と生意気だが意見を言ったら、この話はなくなってしまった。
《専門用語は専門家間の効率的なコミュニケーションのためにある、しかし・・・》  だから、専門家間では積極的に専門用語を使い、コミュニケーションすべきである。
 しかし、専門家と言えども、一般人に説明することもある。その場合は「平易な言葉や、別な事例などの引用で、平易に」説明出来なければならないのだ。そうでなければ、相手は理解できず、説明の意味はなくなってしまう。一般人相手に専門用語を使いまくる人はスマートな専門家とはいえないのだ。
 これもある会合で言ったこともある。素人上司が会議に混じり込んできて「専門用語でわからない」などといっている。こっちは素人上司のために会合能率を低下させたくない。そこで、これを言ってやった。
《人を疑えば切りがない》  管理を性善説でするか、性悪説でするかという問題がある。答えは性善説である。
 勿論それを行うにはメンバーの質を揃えておかなければならない。性悪説で管理しようとすれば、管理者の管理者、またその管理者など管理のオーバーヘッドが生じてしまい、QCD悪化で企業は当然立ち行かなくなる。性善説でやれるような人を相手にすべきである。
 あるとき、部の女性が悲しそうな顔をしている。どうしたの、と聞くと「交通費の申請を20円間違えた人が居て、それをチェックしている総務部よりお小言をくらった」というのである。私も機械的に判子を押している。めくら判とはいっても、あの部下は出入りが多いからこの程度か、この部下は少ないからこの程度などのおおまかなチェックはしている、責任は私にもあるのだが、総務部に対し「カチッ」と来た。そこで、重役から部長まで集まった改善会議で「20円のミスを発見するのにいくらかけている」と質問した。総務課長は「女の子数人、大した金ではない」と応じた。重役はギョロッと目をむき「大きな金ではないか」と発言した。まもなく、総務部のチェックはなくなってしまった。この重役さんには世話になった。ある時稟議書を出した。わずか20万円ほどの稟議書である。その稟議書が重役さんに回ることを見計らって、席を訪れた。案の定稟議書がある。そこで「わずかな金額の稟議書に判子など、寂しいですね」というと「何だそれは」と来た。そこで「当社の重役だから、こんな少額で時間と頭を使うのではなく、せめて億で」といった。そうすると「お前達そんなことを思っているのか」という「そうです」と答えて帰ってきた。数ヶ月内に少額は部課長に権限委譲された。「稟議などというものの多くは責任の分散」と思った方がよい。そのために延々と書類が回され時間を食い、会社としての生産性を落としてしまう。
 10年ほど前、テレビを見ていると、ある江戸時代の大阪商人の話だが「風紀が乱れて困った」。どうしたかというものである。規則を増やした、減らした、罰則を厳しくした、の内どれだったか、というものだった。私は正解だった。規則や罰則を増やしても、守りきれないし、人は萎縮してしまう。人に自覚を求める「減らした」が正しいのだ。しかし、日本と異なりアメリカのような場合はちょっと違う面もあるようだ。アメリカでは多様な人種が生活している。生活文化も違う場合がある。そのような中で、日本人のような以心伝心のレベルは低いようだ。であるから、マニュアルは多い。こんなことに関連して、こんな記事を読んだ記憶がある。日本の軍隊は7万人までは世界最強、それを越えるとアメリカには及ばない、というものだ。7万人までは以心伝心が効くが、それ以上になると勝手な解釈が強くなって統制がとれなくなり、それ以上はアメリカのマニュアル部隊が強い、というものだ。昔の国営企業などは30万人を越える体制(今は分割されているのでよくは知らない)だったが、その時代でも本社採用や地域採用を組合せ、本社内は数万人を守っていた。
《景気の良いときに効率化せよ》  30代半ば、私の会社は赤字続きで大変だった。三井三池炭坑以来という人員解雇をやって新聞を賑わせている。肩身も狭い。弟の会社は史上最高の景気などといっている。ところが知り合いの会社も、課を半減とやっている。彼に景気がよいのになぜ?と問うと「こんなものは景気がよいときにやるもの、景気が良ければ人を外に出すのも楽、退職金を割増して辞めてもらうのも楽」というような返事が返ってきた。なるほどと納得した。彼はまだ30代半ばだったはずだが、もう組合の書記長をやっていた。どうしてこんなことを会社で行っていたかだが「景気はよい、史上最高の景気だが、一方で忙しく、忙しい割には利益がいまいち、分析したら高度成長で課を増やしすぎていて、今まで一人の課長の決裁で済んでいたものが分散してしまい内部調整で忙しくなっていた」そこで課の半減という行動に出たのだそうである。
 きついし厳しいが、良い会社というものはこんなもので、景気が良かろうが悪かろうが浮かれずにいつも努力を怠らない会社である。彼が出てきたついでだが「30歳半ばからこの会社に一生はいない」と言いだした。そこで「何故、重役くらいにはなれそうなのに」と質問を向けると「多分なれるだろうが、その頃商社は変わっている、メーカーが力をつけ、商社なしで販売することも多くなっている、俺が重役になってやることは人員解雇」といって、それから数年ほどして会社を辞めてしまった。一応20年ほど先は見ていたようだ。もっとも会社が一族会社で、白いものも黒と言わなければならないようなこともあり、会社に幻滅もあったようだ。
《確認形式》  人に依頼するときには基本的に二つの確認形式がある。一つは「確認応答形式」というものである。何か依頼されたならば、処理中や終了後に終わったと報告する形式である。もう一つは、それらを行わず、やってくれているだろう、終わっただろう、などの「推測形式」である。私は通信屋だったのだが、通信ではほとんど前者を採用している。届かなかったか?と思えば再送もする。
 これを「Ack(acknowledgement)、Nack(not acknowledgement)形式」と言っている。しかし、これは人のやりとりでも基本である。
 確認応答形式では、やってくれたかどうかが直ちにはっきりとわかる。受け付けた、処理中、処理を終わった、受け付けられなかった、が必ず帰ってくるからである。時系列的に縦の仕事をしている場合がある。例えば、自分が仕事を開始したが、別の人の手助けが必要になった。その結果を待って自分の仕事を再開しなければならない、というような場合である。並行作業の場合もある。人の手助けが必要になった。両方終わらないと先へは進まない、と言う場合である。こんな場合、確認応答形式ならば、終わったことが直ちにわかるので、次へ進むことが直ちにできる。これは人間のコミュニケーションでも通信でも同じである。推測形式では、いつ終わったのかもわからないので、終わっただろうと推測し、また問い合わせなければならない、相手はとうに終わっているのかも知れない、こんなことで遅れを生じてしまう。
 世間一般では、結構後者が多い。しかし、会社などで生産性を考えている環境で後者は駄目である。私は、人からの依頼には何事も前者で処理するよう心掛けている。
《最適は余裕度低下、冗長は余裕度を増す場合がある》  よく「これは最適です」ということがある。これには注意しなければならない。最適というのは、あることに対して最適であって、別のことには最適でない。最適なものは、別のことには通用しない場合がある。冗長なものは、我慢すればあれこれと使える場合がある。
 昔の経験だが、同僚と仕事をしていた。私は少々冗長に設計をする方である。その方が楽だからである。後で、お客がこんな機能追加や変更を言ってくるかも知れない、何かミスが出たときに対処余裕をつくって、などと考えながら設計している。別の同僚は、最適設計を心掛けている。お客からの機能追加などがあった場合、私の場合は「はいはい」、別の同僚の場合は「困った、困った」である。これはどちらが正しいというものではない。私の場合はコストが少し高くなる。しかし、長く使うものはあまり最適は好ましくないというのが私の持論である。
 ヨーロッパの建物が何百年とどうして使えるのだろう。石造りと言うこともあるが部屋の区画が基本的に広くアレンジ出来るからだろうと思う。建築の場合も、苦しいし経済性は多少損なうが、余裕度のあるものを心掛けている。
《違うものは違う》  違う物は何かが違うという感覚も重要だろう。
 最近、コピー機とFAXが一体になった機械がある。この事務所の場合は別物を独立で入れてある。営業マンが「機能的には同じですから」といってきたが、下記の理由で別物としてきたのだが、今は機種もなくなり、安くなり、品質もよくなり一体型になっている。当初は、
・ 機械が高い(メーカはこのようにして付加価値を見せようとする、狭い事務所なら良いかも知れないが)
・ 同じではない。故障の個所によってはコピーもファックスも両方同時に使えなくなる。
 こんなことで、何か違えば違うのである。通常は冗長でもよいが、厳密性を要求されるところで「違うものは違う」という観察力を持たなければならないと思う。車だってそうである。乗用車とRVを持っている人が居る。この中間的な車を持って同じとは言えないだろう。2台と1台の違い。中間的だから乗用車でもなく、RVでもなく。適当に使うときはよいだろうが、本格的に使いたい場合は駄目などである。こんな例は、日常の仕事や生活の至る所であるであろう。
《ミスはミスを呼ぶ、益々混乱させることにもなりかねない》  自分も人間だからミスを犯す。しかし、そんな時は今でも反省する。何が根本原因なのかを必ず見つけ、再度犯さないように努める。ある時は、仕組みを変える。
 こんな風にしている自分だから、つまらないミスを他人に犯され、繰り返されると腹が立つ。つまらないことで同じミスを繰り返してもらいたくない。私は昔設計で、それも何十人で分担しながら設計するような量産の通信機を開発していた。そのようなものだから深く考えないと考え落ちからのミス、頭の限界からのミスなどが開発したものに混在してくる。ミスに気付いて、うっかり・浅い考えで直したりすると、そこは直っても、別のところとのインターフェースが合わないでミスとなる。深いところのミスだから、その時はミスと気付かない。とんでもない時に、そのミスが発覚し、システム障害となり、システムが停止し、お客様から大変なお目玉をくらう。
 私自身幸いにこんなに大騒ぎになったものはなかったが、ヒヤリは何回かある。周辺では結構こんなことを起こしていた。ミスはミスを呼ぶ。深いものほど慎重でなければならない。こんな育ちをしているから、人がミスを反省もせずにあっさり謝るだけで片付けようとしたり逃げている場合には本当に腹が立ち、根本原因まで徹底的に追及する。これを「彼奴は怖い」と思われていると思うのだが、会社のため家族のため従業員のためを思えば当然のことである。
 顧客に救われたこともある。ある設計をし100台ほど製造し納入した。ある電話局から問題の連絡が入った。ハッ!とすると同時にある部品の使い方に誤りがあることに直感的に気付きテストしてみたら、その通りだった。早速お客様のところに誤りに言った。100個所にわたる修理をどうしようと思っていたら、相手がよい方で「メーカーさん大変だし、現場(電話局)でちょこっと直せる範囲だから、当方で対処しましょう」と言ってくれた。