経験から(人と組織)

タイトル本文
【人】
《何の目的で本を読むのか》  本をあまり読まない私がこんなことを書く資格はないのだが、目的なしに本を読めば、頭に残るものは少ない。時間をつぶしているだけの場合がある。多読は「積ん読」に等しい場合がある。
 ボーっと見ているときもあるが、結構多くの場合テレビでも新聞でも意識して観ている。どんな意識かと言えば、「事業への影響意識」からである。テナントの経営内容が新聞に出る。何か、賃貸に影響があるのか考える。テナントの消費電力に違いが出る。これも何かあるのかと考える。問題意識を持つのが重要かも知れない。現実面はともかくとして「危機意識・危機管理」と言う言葉は好きではない。人間もっと楽しい面から仕事を考えるべきと思うからである。
 ちょっと筋からは脱線するが「相続対策」と言う言葉も好きではない。それは何も生まないものであり「仕事の種類を示すものではない」からである。こんな言葉が蔓延する社会ほどおかしいことはない。
《考えることと記憶すること》  中年になって何で私は技術系かつ物理・電気・数学などが好きだったか考えたことがある。結論は、記憶することは大嫌い、考えることが好きだったのだ。それらは記憶するところは少ない学科である。どちらの人間でも一長一短がある。できれば不得意な方も、人並みでありたい。超難関校への合格や上級の国家試験などは相当の記憶力や集中力がないと駄目だろう。ただ、それだけが得意な人間が先行してしまう社会もおかしいものである。世の中は基本的に新しいことばかり、過去の例だけで出来るようなことはそもそも少ない。
《他人は自分ほど意識しない》  ある人が発言したが間違っていた、ということがある。こんな場合、発言した人は非常に気になるものである。しかし、他のメンバーはそんなことを意に介さないと言うのではなく、余程の馬鹿発言ならともかく、またいつも間違った発言をするならともかく、あまりいつまでも意識には残していないということである。ちょっとした、誤り発言をいつまでも気にしているのは「自意識過剰」というものである。自意識過剰は頭の良い人に多いようだ。
 あたかも本当に人の心配をする人でも、本当に親身になって心配している人は少ないものである。中年の働き手を失った葬儀に出向いて、世間の馬鹿話をして笑っている人は本当に心配はしていない。一時、心配しているような顔をして次の瞬間に気分が完全に切り替わっている人は、本当に心配していないなどと思うのである。
《優しいということは》  人に優しいということは、人を自立に向けて指導することではなかろうか。叱る時もあるだろう、なだめる時もあるだろう、誉めるときもあるだろう。こんな点で上手な人は本当に上手である。
《組織の環境改善第一》  ソフトウェア部門に異動した当初、若い人達が「徹夜だ!」とやっている。翌朝聞いてみると「プリンター故障で無駄をした」などと言っている。当時の作業環境は貧しかったので、ソフトウェアのチェックのために、プリンターに出力して調べるのだが、そのプリンターが故障しては仕事にならない。上司は人は良いが、上に立つ人としては疑問だ「俺が直す、何度も直した」など得意そうに言っている。立場とやることが違うではないのか。早速予算をとって、数百万円のプリンター2台で1千万以上を購入した。上司は「一番重要で費用が高い人が無駄をしたのを問題にしていない」のだ。
 自分はプログラムに関しては無力である。環境だけは守る方針とした。環境を守り部下の技能の向上をさせておけば「会社がどうなろうと食えないことはない」、食える部下が育っていれば会社のためになる、と考えはじめていたからである。パソコンなども最初にソフトウェア作成の道具として入れはじめたし、自分の部隊に行き渡るのも会社で一番早かった。
 我々が設計しているシステムは、多数の人が直接使うものである。そのテストのために何十人という優秀な技術者達が人力で徹夜で端末の操作をしている。ストレステストだ。こんなものも機械でやるようにした。こんなことで金で済むものは徹底的に予算取得し、設備を入れた。
《守りには限界がある》  技術者時代、ある技術者が自分の保有技術を正当化し固執し守っている、その時はよいのだが、技術が変化し、その技術者は全く不要になったという経験をしている。先を見て新たな技術取得をすればよかったのに、頭も悪いやつではなかったのに、と思うこともあった。そんなことから、こんな風に思うようになった。
 守りに入ると、その瞬間からその人は新たな勉強を怠ってしまう。組織は陳腐化するのと同様に人間も陳腐化して行く。社会はどんどんと変化しているが、実務上にはその変化は表面化していない。別の人は、新たなものを追求している。その新たなものが、突然表面化し社会が一挙にその方向に向かう。その人はその瞬間不要になってしまう。その人は、やっと気付き、新たな方向に向かおうとする。しかし、勉強を怠った期間の損失は大きい。年齢が高いほど追いつけない。予期しない断崖絶壁から落ちるようなものである。同時にこんなことも思った。
 「人間は過去の蓄積で食べている」である。今、自分は何の技能で食べているのか考えてみよう。ほとんどそれは過去からの蓄積技能のはずである。先への蓄積を怠っていれば、しっぺ返しを食らうのは当然である。これは個人にも会社にも言えることである。守っていれば、ある期間までは守れる(守れているように思える)、しかしその期間が過ぎると一挙に崩壊する。
《過去と比較せよ、差がなければ退歩である》  自営業と言うものは、事業がどうなるかは別として、自由気ままにでき、結果として甘くなってしまう場合がある。行政などは独占事業体で競争が少なく、甘くなる。一般企業の場合は、競争があり努力を怠っていれば、いずれは滅ぶことになる。
 しかし、こんな風にすれば自己チェックが可能である。「昨日と今日」「1年前と今」など過去と現在を比較してみることである。そこで、何の差もなければ退歩である。社会は変化しているのであるから。即ち、昨年も今も同じは退歩である。こんなことを日常考えるのだが、私の場合は事業上の差が徐々に出なくなっているのに気付いている。しかし、ここまで年齢を経るとある程度は仕方がないのかも知れない。やはり細かなことを考えるのは面倒になってくる。
 趣味の範囲での差がなくなれば、これはもう完全な終盤なのであろう。でも、こんな事は差なのではなかろうか。ゴルフのスコアが低下しない。肉体も頭もどんどんと低下しているのだから、スコアが低下しないのは、差はあると考えて良いのかも知れない。しかし、バラツキは激しくなっている。
《三分の一主義》  私は多くのことを三分の一主義で考える。3:4:3のルールなどと言う人も居る。「1/3は味方・1/3は双方の様子を窺いどちらにでもなびく人・1/3は敵」;「1/3は理解者・1/3は半分理解者・1/3は非理解者」;「1/3は頭の良い人・1/3は普通の人・1/3は頭の悪い人」などである。こんな風に思っていると、何事も1/3の理解を得て、どちらでもない人1/3を味方にすれば大方何事も進むものだと考えている。
 こんな会話を上司としていると、俺は1割だなどという人が居た。私はこんな人は嫌いである。こんな人にはついて行かない。
《意思決定会議の最適メンバー数》  どんな人数でも会議というものはできるものだ。しかし、意思決定会議というと別である。「意思決定会議はベスト5人、ベター7人、10人迄」などと言われる。あまり多くの人数で意思決定会議を行おうとすると意見がまとまらなくなってしまうのである。会社同士の合併などでは、双方のトップしか知らなかったと言うこともある。周辺の数人はわかっているのかも知れないが重要事なので口が堅かったと言うこともあるだろう。
 地域などでは、多くの人を集め、委員長などが意思もはっきりしない会合が多い。こんなものはまとまるはずがない。
《人への依頼は余裕期間を持って》  人に依頼して直ちにやってくれないといらいらしてる人が居る。こんな人はわがままというのか、自己中心というのか、人には都合があると言うことを知らない人である。
そもそも仕事を効率よく消化する人を考えてみよう。《前倒しと枯らし期間》で述べたが、依頼される人は、自分なりに予定を組み込んで先へ先へと仕事をしているし、今切迫した仕事をしているのかも知れない。そこへ、依頼者は割り込むのである。誰が見ても緊急で割り込まなければならない事情の時は仕方がない、しかし自分の要求したことを最優先で依頼することは控えるべきである。相手の能率を落としてしまう。特に知的業務の場合は、中断によって頭が冷やされ元に戻るには時間がかかる。即ち、相手の能率を中断時間以上に低下させてしまうのである。
 しかし、こんなことも考えるべきである。一般的には依頼内容で緊急度というものはわかる。期間を言わなくても程々の期間でやってくれないと、いくら時間余裕を持って依頼しても依頼者はいらいらしてしまう。
《科学技術の進歩を、人間の進歩と錯覚するな》  人間は、オギャーと生まれてからの時間は、大体決まっている。であるから、生まれてから死ぬまでに覚える量は決まっている。昔の人であっても今の人であっても基本的に同じである。だから、人間もその集団も昔から進歩はしていない。進歩しているのは、科学技術だけである。しかし、いろいろな情報が飛び交っているから、今の人の方刺激が多く多少量は増えているだろう。
 科学技術は、前人の研究開発の上に、次の世代が技術を積み上げ利用することができる。しかし、それは益々難しい領域に入って行く、一人の人間では益々手に負えなくなる、そんなことで専門領域がさらに細かくなって行く。科学技術の進歩を人間の進歩と錯覚しないことである。
【会社・組織】
《会社、組織は衰退する》  会社も組織もその地位に安住すれば衰退するといえるだろう。衰退すれば自分の生活は脅かされる。会社のことなど、組織のことなど知ったことはない、などと言っている人間に限って無責任や無能力者である。そんなやつに限って、何か自分に悪いことが起こると大騒ぎしたり非難したりする。考えている人間は、まず自分をチェックする。
    何故、それらが安住すれば衰退するのか、
  1. 社会やそのニーズは変遷している。
  2. 同じ業種の会社でも、後発組の方がコストが安い。後発なら、人は若く給与水準も低いだろう、設備も最新かつ必要最小限のものしか保有していないだろう、などなどで安い製品を供給できる可能性が高い。必要最低限のものしか保有しなくて良いのだ。古い会社はなかなかそうはゆかない。特に製品が単純な場合には、こんなことが起こりやすい。では、後発がよいかというと必ずしもそうではない。後発は、直ぐにまたその後発が出てくる。であるから、休む間なく安い製品をどんどんと開発しなければならない。後発で安い製品を供給でき会社はどんどんと発展して行く。人も増え、設備も増えて行く。そうなるとマネージメント層が不足してくるのだ。マネージメント層の人材不足だ。このマネージメント層は簡単に要請できるものではない。また、いろいろな管理機構が不足してくる。人も段々と歳をとって行き、人件費の割合も増してくる。これで、発展は飽和してしまう。飽和なら良いが一挙に解散という場合もある。
 私が40歳くらいの頃(1980年頃)自分の会社はどうやったら生き残れる(surviveという言葉だが私は好きではない、人間本来ならば楽しく仕事をし、楽しく生活をしたいのが本性で、尻に火をつけられるような「生き残る」の言葉を使うのはいやなのだ)のか、私の会社の特徴は何なのかを考えていた。私の会社は老舗と言われる会社だったのだが、装置に使われる要素(部品やユニット)は後発メーカから安いものが提供され、自社製を使うより安くなって行く。ソフトウェアでさえライセンスを買ってきた方が安く良い場合もある。こんなときに「一応、老舗と言われる我々は通信の総合商社なのだ」と思った。ある複雑な通信網を構築する場合、技術の要素も多種多様であり、後発の単品メーカが手を出せるものではない。我々は種々のエレメントを組合せ、全体を構築できる通信ジェネコン(ジェネコン;general contractor)なのだと思った。これは、今も間違っていないと思っている。
 「組織は出来た瞬間から陳腐化がはじまる、いや組織構築の検討中から陳腐化がはじまっているのだ」という人が居る。社会はどんどんと変化している。であるから、こんなことが言えるのだ。また、新しい組織を作ったら、あるいは作る検討をするのならば、他の既存の組織も全面的あるいは部分的に見直さなければならないのだ。そうしなければ、資源(人・物・金・情報)有限(ある限度内で)で経営しようとしている組織はどんどんと肥大してしまう可能性がある。肥大すれば、高コスト体質、衰退となってしまう。こんな馬鹿げたことがあったので、記述してみよう。私は技術者だったから、いろいろな様式の技術用紙を使う。40歳の頃でその時まで気付かなかったのだが、あるとき自分の使っている用紙を見たら「株式商業課」という制定部門名が出ている。これは本社にある主として株主を管理している課である。当時、会社はもう100年も経っている会社である。技術が多様化しいろいろな様式の用紙を各事業部門がどんどんと制定し使っている時代に、まだ本社が戦後間もないような、こんなことをやっていたのだ。ある委員会で本社にクレームをつけて機能を廃止させてしまった。

 地域には多くの団体がある。役所系団体、警察系団体、消防系団体、自由団体などなどである。こんな団体が発足後見直されることはほとんどない。あいつが死ぬまでは仕方がない、などといつまでも存続している。自由団体だから存続できるのである。しかし、こんなことは意識しなければならない。本来、団体はある社会機能面から必要で発足したものである。もし、その団体が本当に機能しているならば、今の社会の要素の多くをカバーしている。ところが、実際にはほとんどの団体は、御用団体だったり、自己中心団体だったり、自己消費団体(会費を集め団体内で消費し外には何の貢献もない)だったりする。
《部下の選択》  課長時代の話だ。部に5課あり20人の新入社員が配属されることが決まり名簿や履歴書が送られてくる。私は「一人少なくてよいから、先に名簿を見せてもらえませんか、かつ指名した人を課に配属してくれませんか」と部長に要求する。部長は「変わってるな、助かるな、いいよ」という。3年ほどして部長との密約が他の課長にばれてしまい、その後はご破算になった。こんな背景があった。
  1. 当時はソフトウェア部門だった。何事もそうなのだが、知的業務の生産性とは人の頭である、頭の悪い人間にいくら時間を与えても成果は出ない。頭の良い人ならさっさと終えてしまう。であるから、頭のあるレベル以上を採りたいと思っていた。
  2. かつ、当部門は複数の人間で分担設計する集団設計とも言うべきものだったので、集団作業で自己中心人間は困る。であるから、部活などの経歴を持つ協調性のある人を採りたった。
  3. 上位校だけ採れば直ぐに問題にされてしまうので、上記2条件を確保し学校は適当に混ぜた。
 このような採用者に落ちこぼれは出なかった。数年後、同僚課長から「お前はずるい」とからかわれたが「他が単純だから、人を多くもらって喜んでいたではないか」と切り返した。本当に笑ってしまう話だが、部長は「ソフトウェアは人だから」と口癖のように言っているし、私も昔から「知的労働は人」その通りと思っていてこんな採り方をしていたのだが、部長は気付かなかったようだ。私に、小説を書け、と命令され時間を一生もらっても成果は零である。小説家はあっという間に仕上げるだろう。知的業務というものはこんなものなのだ。
《何度も経験できない》  技術者時代の私の仕事は、短くても1仕事1年、長ければ3〜5年等というものもあった。こんなことだから、23歳で入社し30歳くらいで係長になるまでには2〜3回の一巡仕事経験しか持てない。係長にでもなれば管理のために具体的な作業からはある程度離れざるを得ないし、マネージメントを要求される。こんなことだから、2〜3回の仕事で30歳になるまでに諸々覚え立ち上がってしまわなければならないのだ。会社間競争がなければ、駄目人間でも、もう1回・もう1回と経験させることも出来ようが、一般的な会社にそんな余裕はない。
 しかし、稀にはこんなこともある。課長時代あるプロジェクトが私に移管された。主任に威勢が良くはっきりものを言う部下が居た。言っていることは当たっている。私の観るところ、技術者としてはまあまあだし、主任としての管理面は軍隊で言えば、軍曹風、統率力もある。しかし、前任の評価はミスが多いということで駄目だった。そんなことで係長にすると、システム構築力もあり能力を発揮しはじめた。残念ながら彼は退職し他社へ転職したのだが、重役になった。しかし、こんなことは稀であろう。多くの人は、烙印を押され浮かび上がれなくなってしまうのだ。
《競争があって強くなり維持が出来る;競争原理》  競争はいやだしのんびり生活したいと思う。余程の人でない限り、自分には甘いものだ。しかし、こんな話をしておこう。
 アフリカのあるところでライオンと小動物が共生していた。小動物がライオンの餌となっているのを見た保護団体が可哀想に思って、双方を分けてしまったら、両方とも滅んでしまった、というのである。食べられていた小動物は動きが鈍かったり、老齢になっていた劣性のもので、優性のものはライオンも捕獲することが出来なかったのである。ライオンは餌がなくなり滅んでしまった。小動物は、劣性も交配を続け種が弱り滅んでしまった。
 こんな話しもある。ジプシーにユネスコが井戸を掘ってやった。周囲が禿げ山になり環境破壊し井戸も使えなくなった。ジプシーは動物を飼いながら移動しいている。来年も草が生えるように、きちっと残し、移動する。井戸が出来たものだから、居着いてしまった。薪のために木を近場から取った。草もなくなり家畜も飼えなくなった。近場の木はどんどんなくなり円状に荒廃が進んだ。木がなくなり井戸もかれた、というのである。人間の社会も会社も同じである。ぬくぬくとしていれば、会社の場合は社会に良い製品を供給できなくなり滅んでしまう。国だって世界から相手にされなくなり落ちてしまう。
 行政には競争がない。あるのは出世競争だ。だから駄目になるのだが、悪代官のごとく金を税金で徴収するからつぶれない。例えば、各区に第1区役所・第2区役所などをつくり、どちらでサービスを受けてもよいですよ、としたらどうだろう。どちらも必死になる。
《責任と権限》  責任と権限はつきものである。責任を持って仕事をすると言うことは、権限がなくては自由にできないからだ。会社の不祥事で最近トップが辞めている。トップが本当に知らなかったとしても辞めさせられている。これは、「最終責任」というものだ。部下の不祥事で、それを知らなかったとしても、トップには責任がある。こんなことも知らないで、言い逃れをしているトップにはそもそもその資格がないのである。可哀想だが、頭の悪い人には、責任も権限もない。それは仕方がないことである。その人はその人なりの立場で活動すればよいのである。
 権限を与えてくれない、とぼやいている人がいる。「権限は場合によっては奪うもの」というのが私の考えにはある。でも奪って実行できる力がなくてはならない。また、上がそれを理解できる者でなければそうは行かないだろう。
 権限を与えた場合、あまり細かなことに口出ししないものだ。人が違えば趣向は違う道も違う。逆に口出しされるということは、与えたものが満足できないという場合がある、腹を立てる前に自分で出来具合をチェックしてみることだ。昔「そんなに口出しするのなら全部自分でやればよい、どうせ出来ないのに」と陰口を言われている課長がいた。こんな風になると、部下は協力的ではなくなってくる。
《トップは問題処理屋や対策屋ではない》  小さな会社でトップなどとは言いたくないのだが、会社のトップは、対外的な後始末屋ではあるが、内部や小さな問題の後始末屋ではない。内部の小さな問題は各々が対策を考えるものである。この家のような零細企業の場合、私は問題解決も対策屋もやるが、私しか出来ないものは別として、他の人がちょっと考えれば出来るものを他の人から安易に受けるのは、極めて心外に思っている。「私は皆の下請けではない」といったことがある。
《基本点を把握、オーソドックスに》  技術好きで、電気・機械とばかり考えてきた私が今は不動産管理屋である。この家をはじめた40歳頃から、不動産管理の専門家になるつもりはなかった。いまさら、細かなことを覚えて資格試験を取ろうなどは全く考えなかった。それは、測量士・設計士・不動産業者など外部の専門家の助けを得ようと思った。しかし、いろいろな人との仕事上の交流の中で、仕事上の核心だけは正確に頭に入れるよう努めていた。これがしっかり入っていれば、大きなミスを起こすことはないからであり、業者がいい加減な事を言っても指摘できるからである。
 20年ほど前から「内外情勢調査会(時事通信社)」というものに参加し、都合がつく場合は、講演会に参加している。川崎の部会でNHKの「加賀美アナウンサー(女性)」の話を聞く機会が数年ほど前にあった。「いろいろと新しい話題の番組を担当されていて、理解が大変でしょうが、その辺はどうしているのですか」と質問した。彼女は「私は簡単に考え、簡単に理解するようにしているのです。ですから何ともありません」と答えてくれた。
 OrthodoxとParadoxがある。逆説的に考えて良い解決を生むことがあるが、その機会は少なく、見つからない場合は時間を浪費してしまう場合がある。また、条件の変更に対して応用が効かない場合もある。オーソドックスにこつこつ積み上げれば、大体が目標通り目的を達することが出来る。こんなことから、私はオーソドックスに考え、オーソドックスに進める方が好きだ。判断する場合も、その方での検証が判断を間違えない場合が多い。
《10年同じ評価の人はすごい》  30代後半の課長時代プロジェクトが安定していて仕事は部下任せで時間のあるときがあり、プレジデントなどと言う雑誌を読んでいた時期がある。時代の寵児が評価されていた。結構多くの人が登場していた。ところが10年ほどして(そのときは退職していた)同じ雑誌を読んでいると、今度は同じ人が失敗者として掲載されている。こんなことから10年成功が継続している事業家はすごいものと思うようになった。
 しかし、10年の継続はやはり人間的にも事業戦略上も懐の深いものを持っているのだろう。この時代、私には珍しく三国志も読んだ。プレジデントで一端が掲載され興味を持ったからである。何を得られるのかを意識して読んだ。得られたのは「小国といえども、大国のなすがままに蹂躙されず、抵抗の意地のある国はそれながらに生き長らえる、おとなしければあっという間に攻め滅ぼされる」ということだった。言うは易く、行うは難し、であるが、事業上もいえることであろう。勇気がいることであるが。
《自覚の重要性》  組織には複数の人間がいる。複数居ると言うことは、大きな組織の場合は、単機能人間やマンパワー的共同作業なども存在することも多いが、大きいな企業であっても小さな組織、小さな集団では、全員がどこでも機能できることが理想である。本来、単なる手足では融通が利かずに困るものである。複数の人間が、ある時(知恵やパンパワーが足りないとき)は同じ機能で、あるときは別々の機能(独立で動けるとき)で責任を持って動け、お互いのチェックなしでも、対外的に満足する機能を果たすことが理想である。
 他人のチェックを受けなければ、外に出せないような質の仕事しか出来ない人は、一人前ではない。チェックなしで仕事の結果を外に出せるよう心掛けるべきである。安易に「チェックして下さい」はコストも納期も悪化させていることだ。複数の頭脳を使うと言うことは、それだけ質を上げなければならない時であるということである。他人に見てもらう場合「見てもらう人にも申し訳ない」という気持ちで臨むべきである。「見てもらった方がよいか」「自分だけで大丈夫なのか」を判断でき、結果が良好なのは出来の良い人だ。最悪なことは「自分だけで大丈夫と思ったことが、外部に出てから駄目とわかること」である。
 こんなことで、仕事上は何かやる場合には「これは一人ではできないものか、何人なら出来るか」と何事も考える。であるから、一人で出来るものを何人かでやるのは嫌いである。ただし、新しい人の訓練の場合がある。そのような場合は別である。
《肉体寿命と事業寿命》  人間には二つの寿命がある。「肉体寿命」は死ぬときである。その前に「事業寿命」が訪れる。これは、頭や身体の老化の結果、仕事に耐えられなくなる寿命である。それは、仕事の種類によっても違ってくるだろう。戦前は、隠居制度があったようである。即ち、事業寿命と肉体寿命を分けて考えていたのだ。ある年齢になると財産や事業権を子供に渡し事業の第一線から離れ、良きご隠居さんとして第二の人生活動を送る。勿論、頭がしっかりしていれば事業上も相談役として、機能するときもあるだろう。
 さて、ここからが重要なことなのだが、戦後隠居制度はなくなってしまった。財閥解体のために相続が厳しくなるというように相続制度が変わったためである。隠居制度がなくなると、多くの年寄りは、二つの寿命があることを忘れてしまい、何も考えないために事業寿命=肉体寿命となる傾向が強くなってしまった。これは、家のためにも国家のためにも悪い結果を招いているのである。なぜなら、年輩者ののさばりは活性度を落とすからである。私は自分の事業寿命を65〜70歳くらいのところと考えている。人間は惚けてしまえば隠居・引退を自ら言うことはなくなるだろう。であるから、頭がまだまだな内に実行することが重要なのだと思っている。
    こんな事を厳密に考えてみれば、いろいろな寿命がある。
  • 大学を出て、30位までは第1線としての実務を覚える時期(実務訓練寿命)
  • 40歳くらいまではマネージメントを覚える時期(マネージメント訓練寿命)
  • それ以降は、マネージメントを使う時期(マネージメント発揮寿命)
  • などである。ある年齢を越えてしまえば、出来なくなる訓練もある。その時期、その時期が大切で、階段を一歩一歩あがっているようなものだ。
 
《税法は大切》  弟から「税法を征するものは・・・」と聞いたことがある。確かにそのように思う面がある。しかし、それには税法の網をくぐるという響きがあり、私の生には合わない。それは、守りでしかない。しかし、無駄に税金を払うのももったいない。大手企業の場合はそれも大きな金額となるから、専門家がいる。しかし、小事業では専門家不在である。感性をもって必要に応じて専門家にコンタクトすることである。攻めることと節約にかける労力のバランスを考えなければならない。
 税法は大切である。それなくして国は維持できない。しかし、こんなこともある。ある税理士の先生に「先生なのだから理想とする税法があるでしょう」と質問した。先生は「あります」と応じた。そこでまた「では、そのようになったら、どの位の税理士が食えますか」と聞いた。先生はちょっと考えて「そうですね。3割くらいですかね」と答えた。それだけ、システムが遅れ社会には無駄なことをしている人や無駄をさせられている企業や人が居る、と言うことである。
 ただ、お役人の前で「悪税法は環境を滅ぼす」と発言したことがある。税収を増やすために、建坪率・容積率・今は天空率などというものでどんどんと規模の増すものを建てさせ、納税者を追いつめれば緑地はなくなり環境は悪化するからである。一体誰が環境と税のバランスを考えているのだろう。
《在庫から観る、ゴミから観る、ゴミは宝の山》  決算書などでバランスシートを見る。残念なことと勉強しないから、年1回しか見ない。その度に、ああこうだった、と思い出しながら見る。残念ながら観るには至らない。昔、知り合いに専門家はどこから観るのかを聞いたことがある。在庫(仕掛かりを含む)から観るようである。一見、決算が良くても在庫が多ければ、それは売れないかも知れないし、現金不足だからであるようだ。
 専門家は工場などを観ると、この工場がよいかどうかは一見してわかるようである。きちんと整理・整頓され、ゴミがないというのは大方良い工場といえるとのことである。「ゴミは宝の山」と言われる。ゴミには無駄が多く含まれている。ゴミを分析して、それを出ないように考えることが、節約につながると言うことである。ゴミは単に物だけではない、者・仕組みなどなどいろいろなところにある。
《上への提出文章に霞をかけるな》  社長と課長の懇談で、ある難関校出の馬鹿課長が「上にお出しする文章には、どのように気をつければ」と聞いた。社長は「若い課長が、そんなことを考えること自体おかしい、思ったことをそのまま書け、私にあがってくる文章は霞だらけ、こんな文章で経営判断がであきるか」と叱っていた。
 しかし、馬鹿上司相手にこんなことをやったら、まずいことになる。難関校出と言っても技術上は大したことがない人も多かった。しかし、上に出す文章など作成させると実に上手な表現を使う。上はころっと騙されてしまう。これには、さすがだなと思う。国立難関校は、理工系でも国語や社会ができなければ入れなかった。ある年齢になると、急にそれが生きてくる。心理学の話と同じである。
《管理者は神経質?》  私は、血液型O型だが結構神経質である。それを表に出すか、出さないかは別として、神経質でなければ管理者は務まらないと思うのである。次のあるいはいずれの仕事・事業を予測、今進んでいる仕事・事業の状況把握・関係者の和の観察などなど神経を張り巡らしていなければ管理はできないからである。
 飛行機は大好きである。ジェットより希に乗るプロペラがよい。しかし、妻と一緒の時は「落ちるなよ」と思う。残されたものが困ると思うからである。こんなことで、海外出張などは避けていた時代もあった。今はもうよい。