振り返って

 2004年夏の灰色宣言からいろいろな経過や判断の元に最終的には腹腔鏡による手術に踏み切った。こんなことを振り返っておこう。その前から、あるゴルフのプロが前立腺癌に冒され、ホルモン治療をしながらプレーを続けていることは知っていた。前立腺癌はそんなことで抑えられるのかという軽い知識しか持たなかった。また、臓器の位置などや正確な機能も知らなかった。
などである。転移があるなら方法も限られて(放射線・ホルモン剤・化学療法)しまうのだが、私の場合はそうではなさそうである。療法が一つなら迷うこともないのだが、これだけあると、一瞬にして最適な療法を決めることは出来ず、やはり考える時間が欲しくなってしまう。私の場合は、こんなように数ヶ月考える時間が欲しかったのである。自営業のために、即入院・手術というわけにも行かなかった。また、期間がかかる面倒な方法もいやである。
 更に、こんなことも考えた。ホルモンが効かなくなったら放射線か抗ガン剤または手術と結局、手術ルートに乗ってしまうと思い始めた。そんな心配を続けているのもいやだし、面倒だし、今後の生活でそんなところに頭を使い、ロスするのはいやだったのである。

 こんな時にある新聞記事から、ある先生の考えを知り、別のご意見も伺いたいと思うようになり、セカンドオピニオンへの行動となった。極めて近い知人を介してのこの先生への接触ができ、懇切丁寧なセカンドオピニオンと私の病状の検査の結果、放射線での治療は無理と判断され、手術(腹腔鏡)となった。術後間もなくという状況であるが、ある意味では「取るものは取り、やるだけはやった、後は今後の流れに任せて」とすっきりした精神状態となっている。
 手術までのC病院のリードであるが、診察の結果、先生から当初「放射線4手術6」を暗示された、これがMRI追加検査と生検の評価結果(B病院のプレパラートをC病院で再評価)、手術(早期回復を考慮して腹腔鏡)となった。私のグレーソン値は7で放射線には向かないと言う。自身で自分の癌細胞を観たわけでもないし、見たからと言ってわかるわけでもない。先生の自信度が私をリードした。この間先生とは「最期まで活動的に行きたいから(QOL;Quality of Life)」とお話しした。それが手術だったのである。B病院とC病院の判断は表面的には全然違っていたと言える(先生の内面まではわからない)。
 私の場合は、自覚症状まったくなしでの入院だから、術前も短期入院のための多少の物の準備のみ、入院したら事前の軽い検査、術中は麻酔でわからず、術後は痛みもなく薬も出ず、食べて・寝て・暇なときは本かテレビ、回復を待つのみという状況で、入院自体は暇の連続だったと言えよう。個室だったから寝たいときに寝、起きたいときに起き、眠れないので夜中に本を見てまた眠る、朝は5時起き、という気ままな入院生活だった。何も心配しない、こんな生活ははじめてであった。

《周囲には「旅行」》
 「正常なら短期入院」ということで、兄弟だけに「実は・・・で入院、だけど旅行だよ」と話した。情報が筒抜けになる身内にも入院ぎりぎりに本当のことを話した。騒ぎ立てるだけの老いた親などに事前に話せば面倒、入院直後に妻が話した。地域仕事で一緒に活動していて何か舞い込んだら迷惑をかけそうな仲間にも数人だけ兄弟と同じように話した。
 長期入院なら徐々に漏れるのも仕方がない、しかし、短期でお見舞い、快気祝いなどなどは本当に面倒である。術後1週間で退院、退院後即職場復帰ではお見舞いに来ていただく適切な期間もない。幸い、周囲が騒ぎ立てないでくれたおかげで、本当に、静かに済ませることができた。退院数日内に、近場のそのような人には、のんびり歩きながら顔出しした。
 誰でも「入院」とだけ言えば「お見舞い」となる。特に短期入院の場合は、患者側ではっきりとした意思を示せばよいのではなかろうか。短期の場合は、まあ重病とは言えない面もあるであろう。見舞う側も日程調整は大変で、何かを犠牲にしなければならないかも知れないのだ。
 12日の間、妻が来たのは10日、それも2〜3時間(往復を考えれば+2時間)の半日コースだった。自営業で家でも多少の仕事持ち、こちらは自分のことは何とかなる状態、余計なことは必要最小限とした。我が家での私の基本は「一人でできることは一人で」である。病気でも同じである。

《病院にちょっと注文》
 蛇足だが、こんなことを思い出した。以前、胃や十二指腸が悪く、一時病院にかかったことがある(原因はわかっていたので薬をもらっていた程度)。朝早く病院に行っても、遅く行っても診察時間は同じであある。不思議に思って観察していると、病院近くの早起き老人達が朝一番で順番をとってしまうのである。私が行く頃は所詮、何時に行こうとも最後なのである。しかも、多くの老人達は先生に呼ばれ入ったと思うと直ぐ出てくる。先生の顔を見て安心し、薬を出してもらうだけだから、あっという間に出てくるのである。こんな人々は一纏めに対処できないものかと思った。

《先生方のタフネス》
 先生方のタフネスには驚く。前日も翌日も夕方まで手術、私と同年齢の先生までそうである。これには頭が下がるし、自分もあのくらいまで活動できなければならないのか?と考えてしまう。外来などでも、一時にあれだけ多くの患者を扱うという点にも驚いてしまう。仕事はいえ不規則な看護婦さんも大変だと思う。

《運;不幸中の多くの幸い》
 病気になったことは不幸なのだが、こんな一連の流れの中では「不幸中の多くの幸い」があった。 などである。私は一人ふらりとホームコースにゴルフに出かける。仲間をそろえるのは面倒、知らない人の方がいろいろな話しを聞けるから参考になるし、私にとっては話題が広く面白い。70歳以上の年輩者などとも、よく一緒になる。病気の話しが結構出てくる。と言ってもプレーが可能な人だから、深刻感は全然ない。その話を聞きながら「将来の私に参考になります」などと笑いながら応じてきた。ある時医師と一緒になり「先生、腹など開いて手術をしようとしたが、手術は無理でそのまま閉じてしまったら数ヶ月でなくなってしまった、放置しておけばよかった、そうすれば数年はもった」などの話しを聞く、何故なのですかと聞いたら「最近わかってきたことなのだが、臓器などは開くのは最少にすべきなのですよ、開いて圧が開放されてしまうと問題なのです」と聞かされたのは10年ほど前のことである。老人には前立腺肥大なども多く、皆いろいろ苦労しているから「下手な医者にかかったら永久失禁だよ」なども聞いたことがある。こんなことも判断材料の一部になっている。腹腔鏡手術の進歩・転移の回避ぎりぎり時期、私の治療方針にあった最適病院への転院など、よくも幸運が重なってくれたものと手術後の2005年10月末思っているところである。

 特定機能病院と言うのがある。多くの大病院や医科大学はそうなっている。町のお医者さんで済むような軽い病気の患者(といっても誤診されたら大事に至る)が高度先端医療を行うような病院に続々と診療に訪れるようになると、大病院はそのような患者への対応に追われ肝心な機能を失ってしまう。そこで、町などの医師からの紹介で診療するというシステムである。しかし、病によっては紹介なく直接受け入れてくれる(私は知らなかった)。病気の疑いを持たれた早い段階(できればあれこれと検査に深入りしない前に)で、 ちょっと難しい治療や難しい判断が必要、先端の治療を望むなどと思った場合は、自分で最適病院を探し、出向くべきであろう。私の場合はちょっとこれが遅かった、その原因は勉強が遅かった、灰色の段階で十分調査すべきだった、という反省がある。
 退院後は、同世代の人に「血液検査くらいはしておいた方がよいよ、早期発見なら対処法も広いから」と話している。

《私の精神状態》
 2004年8月の灰色の時は「何かの間違いではないの」という状態だった。その後半年ほどの間に2回の血液検査で値が悪化するのを観て「これはあるかも知れないな」という気持になったが深刻な気持にはならなかった。その間に、進行が遅い癌を知ったことと、PSAが6〜7であってもまあ転移はないだろうと思っていたからである。その後、生検で発見されても「ドキリ」はなく比較的淡々としていた。進行が遅い癌、転移はなさそうな段階、実母と義父の癌経験、私の年齢(まあ晩年といえば晩年)、子供達の成長、などから「バタバタしても仕方ない、今後無駄な人生は送れないな」という方が強かった。病気を考え寝られないなどと言うことも全くなかった。私は変わっているかも知れない。妻の方はそうではなかったようである。こんなことで、いらだつことも、家族から観れば多少はあったかなと言う程度だろう。生活や仕事への影響もほとんどなかったと言ってよい。灰色となった頃から、行政と一体になったある地域仕事の企画を開始しており、いろいろな過程を経て、これを終えるのが9月目標、私の病気事情ではなくちょっと遅れたが、何とか退院後の年内に一段落することができた。こんな精神的な張りもあった。
 《晩婚化は危険だ》と常々言っている。私の母親が私が26歳の時に46歳で癌で没した経験からだ。歳をとれば病気という危険は増す。しかし、私は母親が20歳で生まれた子供、病気になったのは私が19歳の時大学にも入っており、3歳下の妹もかなりのことが出来、家庭も大混乱に陥らなくて済んだ。晩婚ではそうは行かない。