振り返って
2004年夏の灰色宣言からいろいろな経過や判断の元に最終的には腹腔鏡による手術に踏み切った。こんなことを振り返っておこう。その前から、あるゴルフのプロが前立腺癌に冒され、ホルモン治療をしながらプレーを続けていることは知っていた。前立腺癌はそんなことで抑えられるのかという軽い知識しか持たなかった。また、臓器の位置などや正確な機能も知らなかった。
- A医院の検査で疑いあり(2004年8月)となったが、A医院では専門技能はなく、単なるB病院への仲介(2005年3月)であった。この間は時間的にも精神的にも病気に対してはのんびり構えてしまった。考えてみれば多忙かつ幅広い病気を数人で扱う町のお医者さんが少数派の病気に対処するという難しさがあり、専門紹介は当然のことである。極めて真剣な性格の人ならば、この灰色宣言の時から、真剣に受け止め、必死に勉強を始め、最適病院など探すのだろうが、私の場合はのんびり形で、全然そのようなことをしようとは思わなかった(ある地域仕事をどうしても、この時期に処理したいということもあったのだが)。
- B病院での諸検査の後、癌が発見された(2005年4〜6月)。この間、先生からいろいろな療法があることを教えられた。でも、まだ半ば上の空だった。
手術 通常手術 ・・・1ヶ月程の入院、自己血液を貯める必要がある
腹腔鏡による手術(×)・・・問題なければ入院は10日程、血液も必要ない
放射線治療 照射 ・・・毎週5回×7週間=35日程の治療を必要とする
小線源(×)・・・身体に埋め込む
ホルモン治療(注射と服薬)
化学療法(抗ガン剤) (×)はB病院では不可能
である。癌を宣言された瞬間(6/20)は、当家の場合寿命は短かそうで私の寿命も残るところ63/70(=7/70)、それ以上は余禄などと最近は考えていたものだから、手術も放射線も面倒でホルモンと直感的に思った。先生に「ホルモンで様子を見たい、少し先で手術や放射線も考えたい、ホルモンで様子を見ている余裕はあるのだろうか(転移の心配)」と要請した。先生は、先生の主張もなくホルモン治療を開始した。こんなことで当初は、浅はかな知識の範囲で「ホルモン治療であと何年かわからないが活動的に適当な人生を過ごせればよい」という程度の考えだった。しかし、今後の一生薬を飲むたびに癌を頭に置くのも面倒、根治方法に移行しなければならないのかな等の考えは頭をよぎっていた。先生には秋になったら、手術も治療の範囲に入れたいと話していた。
この病院でも放射線照射はできるのですよ、患者さんが望まれたのでホルモンで、というような言葉は先生から聞いたが、先生の主張がないものだから、この病院にかけてよいのだろうかという疑問が起こった。妻の疑問は私以上だったようである。今考えると、先端の方法を持たないので遠慮していたのかも知れないのだが、こんな方法をお望みなら病院を紹介します(病院間連携)と言って欲しかったところである。
このように放射線治療や手術の可能性も頭にあったのだが、上述のようにB病院には、もし放射線治療なら小線源、もし手術なら腹腔鏡という最新の治療法は所有していなかった。
少し経過し、それぞれの治療には一長一短があることが徐々にわかってきた。
- 手術ならば、一時の身体の負担は別にして、少なくとも一時的には失禁のある可能性が高い・永久失禁は困る、腹腔鏡なら身体への負担は軽い、入院期間も半分以下に短い、
- 放射線は、照射ならば多くの回数の通院の他に、それなりの身体へのダメージがある、小線源にも限界があること(被爆国ということから神経質になり日本の小線源は線量が弱いとのこと)、
- ホルモン療法にもいろいろな身体の変調(3ヶ月ほどの薬で身体が汗は出ないがややほてるような感じを受けており、薬の影響なのか、この継続やひどくなることはいやなことと思っていた;後で知ったがホルモンが効かなくなったり、手術となった場合はやりにくくする)
- 化学療法もある(抗ガン剤など)が、身体への影響もある、
などである。転移があるなら方法も限られて(放射線・ホルモン剤・化学療法)しまうのだが、私の場合はそうではなさそうである。療法が一つなら迷うこともないのだが、これだけあると、一瞬にして最適な療法を決めることは出来ず、やはり考える時間が欲しくなってしまう。私の場合は、こんなように数ヶ月考える時間が欲しかったのである。自営業のために、即入院・手術というわけにも行かなかった。また、期間がかかる面倒な方法もいやである。
更に、こんなことも考えた。ホルモンが効かなくなったら放射線か抗ガン剤または手術と結局、手術ルートに乗ってしまうと思い始めた。そんな心配を続けているのもいやだし、面倒だし、今後の生活でそんなところに頭を使い、ロスするのはいやだったのである。
こんな時にある新聞記事から、ある先生の考えを知り、別のご意見も伺いたいと思うようになり、セカンドオピニオンへの行動となった。極めて近い知人を介してのこの先生への接触ができ、懇切丁寧なセカンドオピニオンと私の病状の検査の結果、放射線での治療は無理と判断され、手術(腹腔鏡)となった。術後間もなくという状況であるが、ある意味では「取るものは取り、やるだけはやった、後は今後の流れに任せて」とすっきりした精神状態となっている。
手術までのC病院のリードであるが、診察の結果、先生から当初「放射線4手術6」を暗示された、これがMRI追加検査と生検の評価結果(B病院のプレパラートをC病院で再評価)、手術(早期回復を考慮して腹腔鏡)となった。私のグレーソン値は7で放射線には向かないと言う。自身で自分の癌細胞を観たわけでもないし、見たからと言ってわかるわけでもない。先生の自信度が私をリードした。この間先生とは「最期まで活動的に行きたいから(QOL;Quality of Life)」とお話しした。それが手術だったのである。B病院とC病院の判断は表面的には全然違っていたと言える(先生の内面まではわからない)。
私の場合は、自覚症状まったくなしでの入院だから、術前も短期入院のための多少の物の準備のみ、入院したら事前の軽い検査、術中は麻酔でわからず、術後は痛みもなく薬も出ず、食べて・寝て・暇なときは本かテレビ、回復を待つのみという状況で、入院自体は暇の連続だったと言えよう。個室だったから寝たいときに寝、起きたいときに起き、眠れないので夜中に本を見てまた眠る、朝は5時起き、という気ままな入院生活だった。何も心配しない、こんな生活ははじめてであった。
《周囲には「旅行」》
「正常なら短期入院」ということで、兄弟だけに「実は・・・で入院、だけど旅行だよ」と話した。情報が筒抜けになる身内にも入院ぎりぎりに本当のことを話した。騒ぎ立てるだけの老いた親などに事前に話せば面倒、入院直後に妻が話した。地域仕事で一緒に活動していて何か舞い込んだら迷惑をかけそうな仲間にも数人だけ兄弟と同じように話した。
長期入院なら徐々に漏れるのも仕方がない、しかし、短期でお見舞い、快気祝いなどなどは本当に面倒である。術後1週間で退院、退院後即職場復帰ではお見舞いに来ていただく適切な期間もない。幸い、周囲が騒ぎ立てないでくれたおかげで、本当に、静かに済ませることができた。退院数日内に、近場のそのような人には、のんびり歩きながら顔出しした。
誰でも「入院」とだけ言えば「お見舞い」となる。特に短期入院の場合は、患者側ではっきりとした意思を示せばよいのではなかろうか。短期の場合は、まあ重病とは言えない面もあるであろう。見舞う側も日程調整は大変で、何かを犠牲にしなければならないかも知れないのだ。
12日の間、妻が来たのは10日、それも2〜3時間(往復を考えれば+2時間)の半日コースだった。自営業で家でも多少の仕事持ち、こちらは自分のことは何とかなる状態、余計なことは必要最小限とした。我が家での私の基本は「一人でできることは一人で」である。病気でも同じである。
《病院にちょっと注文》
どちらの病院でも、もう少し考えていただきたい点が少々あった。また、疑問もあった。
- 検査を受けたり、薬を出してもらったり、手術をしたり、概算費用を聞かなければ言ってくれない、何万円となるような場合には機械的に概算費用など表示して置いてくれるとよいのだが、と思う。入院費用も、入院申込みの時に、概算で結構ですからと言い、聞いた。数分で答えが返ってきた。
- これは本当におかしいと思うのだが、先生に面談するだけだと極めてわずかな支払である(例220円)。技能者という先生との相談時間や先生の頭を使い場所も使い、1錠数百円の薬代にもならないのは、極めて変な気になる。
- ベテラン先生は多くの患者を抱え治療に集中する、若手先生はそのベテラン先生の知識や技術を学ぶために付き従う、治療後何もない場合はよいのだが、失禁などリハビリがある場合には、もう少し先生と密なコンタクトを持ちたいと思う。しかし、それは遠慮せざるを得ない環境にある。ベテラン先生には患者も多い。若手先生も経験の蓄積やいろいろな吸収で多忙である。こんな病気にもリハビリ指導の先生(スタッフ)がいれば極めてありがたいと思う。わざわざ、先生方に聞くほどではない事を患者は多く抱えているように思われ、そこに先生方の貴重な時間を費やす必要もないと思うからである。
蛇足だが、こんなことを思い出した。以前、胃や十二指腸が悪く、一時病院にかかったことがある(原因はわかっていたので薬をもらっていた程度)。朝早く病院に行っても、遅く行っても診察時間は同じであある。不思議に思って観察していると、病院近くの早起き老人達が朝一番で順番をとってしまうのである。私が行く頃は所詮、何時に行こうとも最後なのである。しかも、多くの老人達は先生に呼ばれ入ったと思うと直ぐ出てくる。先生の顔を見て安心し、薬を出してもらうだけだから、あっという間に出てくるのである。こんな人々は一纏めに対処できないものかと思った。
《先生方のタフネス》
先生方のタフネスには驚く。前日も翌日も夕方まで手術、私と同年齢の先生までそうである。これには頭が下がるし、自分もあのくらいまで活動できなければならないのか?と考えてしまう。外来などでも、一時にあれだけ多くの患者を扱うという点にも驚いてしまう。仕事はいえ不規則な看護婦さんも大変だと思う。
《運;不幸中の多くの幸い》
病気になったことは不幸なのだが、こんな一連の流れの中では「不幸中の多くの幸い」があった。
- 前立腺癌は、2004年8月の血液検査で灰色となった。妻が、強く定期検査に私を誘わなければ2005年秋の今でも発見していなかっただろう。恐らく、転移からのいろいろな症状が出て手遅れ発見となっていただろう。
- その後、手術までに1年以上を要してしまったが、この間は私のだらだら性格事情で検査が延びたりということであったが、運良く転移には至らなかったようである(100%とは言えない)。私の病気の進展は、後数年以内に転移という直前であったように思われる(グレーソンスコアが7だったことから)から、これもひやひやものだった。
- 2005年10月、転院した病院で腹腔鏡による手術を受け、術後8日で退院したが、この病院では2001年からこの手術方法を開始しており、方法が確立し安定している状態に入っていた。10年前発病と言われたから、これ以前に発見・手術となったら通常手術で1ヶ月ほどの入院は必須、より苦しい思いをしただろう、家の仕事の影響も大きかった。
- 手術したこの病院は、近しい人のおかげで、よりよい環境での転院ができた、転院前の医師と転院後の医師も知り合いで、協力関係を結んでいただき、重複した検査は行わないで済んだ。
- 3年ほど前から息子が家の小事業に入り、入院治療などでも精神的に安心して家をあけることができた。
などである。私は一人ふらりとホームコースにゴルフに出かける。仲間をそろえるのは面倒、知らない人の方がいろいろな話しを聞けるから参考になるし、私にとっては話題が広く面白い。70歳以上の年輩者などとも、よく一緒になる。病気の話しが結構出てくる。と言ってもプレーが可能な人だから、深刻感は全然ない。その話を聞きながら「将来の私に参考になります」などと笑いながら応じてきた。ある時医師と一緒になり「先生、腹など開いて手術をしようとしたが、手術は無理でそのまま閉じてしまったら数ヶ月でなくなってしまった、放置しておけばよかった、そうすれば数年はもった」などの話しを聞く、何故なのですかと聞いたら「最近わかってきたことなのだが、臓器などは開くのは最少にすべきなのですよ、開いて圧が開放されてしまうと問題なのです」と聞かされたのは10年ほど前のことである。老人には前立腺肥大なども多く、皆いろいろ苦労しているから「下手な医者にかかったら永久失禁だよ」なども聞いたことがある。こんなことも判断材料の一部になっている。腹腔鏡手術の進歩・転移の回避ぎりぎり時期、私の治療方針にあった最適病院への転院など、よくも幸運が重なってくれたものと手術後の2005年10月末思っているところである。
特定機能病院と言うのがある。多くの大病院や医科大学はそうなっている。町のお医者さんで済むような軽い病気の患者(といっても誤診されたら大事に至る)が高度先端医療を行うような病院に続々と診療に訪れるようになると、大病院はそのような患者への対応に追われ肝心な機能を失ってしまう。そこで、町などの医師からの紹介で診療するというシステムである。しかし、病によっては紹介なく直接受け入れてくれる(私は知らなかった)。病気の疑いを持たれた早い段階(できればあれこれと検査に深入りしない前に)で、
ちょっと難しい治療や難しい判断が必要、先端の治療を望むなどと思った場合は、自分で最適病院を探し、出向くべきであろう。私の場合はちょっとこれが遅かった、その原因は勉強が遅かった、灰色の段階で十分調査すべきだった、という反省がある。
退院後は、同世代の人に「血液検査くらいはしておいた方がよいよ、早期発見なら対処法も広いから」と話している。
《私の精神状態》
2004年8月の灰色の時は「何かの間違いではないの」という状態だった。その後半年ほどの間に2回の血液検査で値が悪化するのを観て「これはあるかも知れないな」という気持になったが深刻な気持にはならなかった。その間に、進行が遅い癌を知ったことと、PSAが6〜7であってもまあ転移はないだろうと思っていたからである。その後、生検で発見されても「ドキリ」はなく比較的淡々としていた。進行が遅い癌、転移はなさそうな段階、実母と義父の癌経験、私の年齢(まあ晩年といえば晩年)、子供達の成長、などから「バタバタしても仕方ない、今後無駄な人生は送れないな」という方が強かった。病気を考え寝られないなどと言うことも全くなかった。私は変わっているかも知れない。妻の方はそうではなかったようである。こんなことで、いらだつことも、家族から観れば多少はあったかなと言う程度だろう。生活や仕事への影響もほとんどなかったと言ってよい。灰色となった頃から、行政と一体になったある地域仕事の企画を開始しており、いろいろな過程を経て、これを終えるのが9月目標、私の病気事情ではなくちょっと遅れたが、何とか退院後の年内に一段落することができた。こんな精神的な張りもあった。
《晩婚化は危険だ》と常々言っている。私の母親が私が26歳の時に46歳で癌で没した経験からだ。歳をとれば病気という危険は増す。しかし、私は母親が20歳で生まれた子供、病気になったのは私が19歳の時大学にも入っており、3歳下の妹もかなりのことが出来、家庭も大混乱に陥らなくて済んだ。晩婚ではそうは行かない。