ある本を読んで
《経過》
2004年8月の血液検査で疑問が持たれ、2005年6月最初の病院で癌細胞があることがわかり、仕事などの事情から暫定的にはホルモン抑制剤を飲むことに自ら判断したのだが、秋などの近い将来に手術や放射線治療を考えようと思っていた。ところが、最初の病院では腹腔鏡による手術もできず、小線源による放射線治療もできず、また3ヶ月ほどホルモン抑制剤を飲むうちに異常発汗などが生じてきて、こんなことが一生起こるのもいやだし、放射線の照射もそれなりのダメージが出るし、手術となるとその病院では通常の開腹手術で1ヶ月の長い入院がということで、腹腔鏡を使える別の病院での診察や先生との相談の結果、腹腔鏡手術を決断した。先生との相談の中には候補として放射線針によるものも含まれていたのだが、それで癌細胞を消滅できるかに先生の疑問があり手術を勧められ、手術となった。
自分自身、先生との相談や検討の結果、手術が一番という精神になっていたので、この経過には何ら疑問も持っていない。手術後半年ほどして、失禁はまだ少々残っているのだが、私の仕事は大方が事務仕事、運動もゴルフ程度であり、日常生活にはほとんど影響しないまでに快復している。PSA値は手術前8程度だったものが、抑制剤で手術直前には0.3となっていて、手術後は0.006であるので、今のところはほとんど気にしていない状況である。
《ある放射線医師の本》
偶然だが、本屋である先生の書いた本を見つけて読み始めた。以下を記述すると誰の本かは直ぐにわかってしまうだろうが。
- 癌と癌もどき
この先生の本によると、腫瘍には「癌」と「癌もどき」と言うのがあって、確実に転移するものを癌、転移しないものを癌もどき、と言っている。しかし、それらを病理などで正確に区別したり判断したりすることは出来ないと記述している。「細胞は数万の遺伝子から成り、その異常が腫瘍であるから、異常な細胞は無限の種類に及ぶ可能性があり、余程遺伝子工学でも発展しない限り、どのような異常がどのような細胞特性を持つかという傾向はわからないだろう」と以前から思っているので、これは納得できるところである。確実に早期に転移と転移しないの間には、また無限の範囲があるとも思われる。
このようにわからないから、最悪を考えていろいろな手「手術・放射線・化学療法など」を打つことになるのだろう。こんな点は多くの先生はわかっているはずである。しかし、打っても効果ない手も打たれている現状が多くあるようである。
- 「癌と癌もどき」のような定義をすれば、いくら原発のところが初期でも本当の癌の場合には転移の可能性は持ってしまう。原発のところから、細胞一つでも血液中に流れれば運が悪い場合は転移となるだろうから、こんな事も理解できないわけではない。自分の癌は生検で確定したのだが、その時に「生検で針を刺すのはよいが、引き抜き時に変に細胞を散らすことなないだろうな、器具はどんな構造で、その辺の器具その他の防御(細胞を散らさない)はどうなっているのだろう」と思ったことがあるが、生検時に器具をちらりと目にしただけである。そんなことはないと信じるしかない。仮に生検で転移を作られてもわからない。
- 化学療法などが効かない癌や部位もあるそうである。そんな癌に、知識不足の医師達は抗ガン剤などをガンガンと使用している場合があるそうである。
- 手術にせよ・放射線にせよ・化学治療にせよ、本格的や治療は、運悪ければ後遺症や副作用で苦しい思いをすることがあるそうなのだが、では本格的な治療をして苦しい思いをしても延命効果はないようなことも多いそうである。
まあ、この本はいろいろと考えさせる本だが、著者自身患者を考え、正しくない権威や処置には抵抗し、正義感強く真正直に生きている精神力には本当に敬服する。自分もやや正義感が強い家系だが、とてもこんな言動や行動は出来ないだろう。
私は、自己決断による手術や、今までの経過を納得しているので、お世話になった先生には何の批判的な感情も持っていないのであるが、正直に言って、経過の中でこんな疑問や感情は起こっている。
- 前立腺癌と診断され、悪性度の数値を言われたのだが、癌細胞の特性は無限大の可能性と思っているから、先生がそう言うならば仕方がない、と思うしかなかったというのが正直なところである。勿論、癌か癌もどきかはわからない。
- 主治医の先生は、外科医的先生であった。放射線医師同席の元に話しをしたことは全くなかったので、仮に両先生の判断が食い違うにせよ、両方の医師の話を聞いてみたいと術後本を読んで思ったことである。
- 同じ泌尿器科の先生でもいろいろな分野があることを知った。前の病院の先生は、生殖能力向上器研究要素の強い先生、後の先生は泌尿器外科的な要素の強い先生だったように思う。大病院でも一つの科に教授1人のようだ。逆に難しい問題も起こるだろうが、教授1人ではなく、特性の異なる数人の教授を配したらどうなのだろう。
-