惚け老人と馬鹿国家

 私はいわゆる相続対策というものを諸々やっている。「相続対策」という言葉があって、さもそれが仕事と思われているような社会もおかしなものと思っているが、まあ話を進めたい。私は1941年生まれだが、45歳のときに私より16歳年上の義母にむかって(義父はなくなっていた)こんな事を言った。こんな厳しい言い方ではないが内容はこんなものである。
「複雑な相続対策を理解力の不足した母にいちいち説明し、何度も説明し、了解をもらっているような暇はない。私の無駄な時間が増え生産性が落ちる。私も45歳でいろいろ世の中も経験している。であるから、実印や権利書などをすべて私に渡して欲しい。そうしてくれなければこの家の仕事はしないし、家がどうなっても知らない」というものである。義母は直ちに実兄に電話を入れて相談した。義兄は「婿にそんなことをするものではない」といったようだ。しかし、何度かの私の強い要求に折れて、それらを渡してくれた。こんなことも付け加えた。「私はほとんど家で真面目に仕事をしている。変なところに金を使えばすぐにわかる。そうなったらいつでも実印その他はお返しする」というようなものである。当時は一応大手といわれる企業でサラリーマンをやっていたが、管理職の地位にいてある程度自由裁量でいろいろやれているのが、それより小さな家のことになったら何事も義母の承認などには全く我慢がならなかったのである。こんなことから実質の権限と責任が一挙に私に移行した。サラリーマン時代やこんな経験から、上が分からず屋なら「権限と責任は奪うもの」という考え方が私にはある。

 家の本拠地を開発しようとしたのだが、義母に反対された。「私の目の黒いうちはこのままにしておいて欲しい」というお決まりのものである。そんなことを言いながら、一方では「この土地は守って欲しい」といっているのである。丁度、バブルのピークで建築費も高く今直ちに実行する時期ではないので、こんな話をしてひとまず終えることにした。「お母さんが亡くなったらこの土地は売ってしまうよ。近所のあの旧家は90歳をこえる当主が頑張っている。息子さんも何の対策もしていない。当主が亡くなれば、あの土地は売却されることになるだろう」と話した。何もわかっていない義母は「そんなことはない」と私の言葉を否定した。それから半年もしない内に、その当主はなくなり、1年ほどの間に土地は処分されてしまった。「ほら言った通りになった」と話したところ、義母は青ざめて真顔で「すぐに何とかしてちょうだい」といってきた。今度は私が「そう簡単なものではないよ」と応じた。

 昔は隠居制度があった。考えてみると、実によい制度であったように思う。実権の殆どを後継者に渡し、隠居者として余裕を持って、事業や家族などの相談役・社会の支援・世話役、好きな趣味などに向かうのである。私は知る由もないが、昔は隠居できないことは恥ずかしいこと、くらいの社会風土があったのではなかろうか。しかし、それはなくなってしまった。それがなくなったからとは言え、税制面は別として、事業面や家族面でそれを行う人を私は尊敬している。

 私が、私自身を心配していることがある。それは「惚けた人間は自ら引退を口にはしなくなること」だ。こんなことは数多く見ている。惚けには生活上のものと事業上のものがありそうだ。いずれにせよ、惚けた人間に新たな発想は生まれないのは当然である。科学技術は進歩しても人間自身は進歩しない、惚ける前に引退・自分も年上から見られれば心配しながら譲られた、を考えれば多少の心配があっても委譲、こんなことが人生の最後の美学ではないかと思う。引退というのは、本当に引退という行動をとることである。ある会社の社長が引退といって次期社長に肩書きを譲っても、毎日会社に出社して以前と同じような活動・行動をしていたのでは、権限は移動しない。権限を移動したければ、委譲者自ら物理的・精神的にきちっとした壁をつくることである。寂しかろうが1週間に1回しか会社には来ないとか、相談無用などと行動を変えなければならない、と思うのである。これは精神力の強い人、趣味人でないと出来ないことである。このようにしなければ、権限はいつまでも移動しない。その内に権限を持っている前社長が惚けてくる。これで彼が死ぬまで権限は移動しなくなる。責任だけ押しつけられる社長は可哀想なものだ。こんな場合、次期社長はどんなことをしても権限は奪うことだ。奪った者が正常ならば全体のためになる。委譲した者が異常ならば、なんでそんな人間に譲ったのか、人を見る目がなかった、ということになる。

 以前、私がいるとは知らずに義母が同じ年頃の女性と「老人になってもつまらないわね。娘や婿に気兼ねしながら生活しなければならないから」と話していた。それを聞きながら「それもそうでかわいそうだが、堂々としていて、私たちを今でも指導できる老人もいる。尊敬できる老人もいる。意見を聞きたい老人もいる」と思った。すぐに答えはわかった。すなわち、そのような老人は、マクロではあれ「頭が若く、社会の変遷にフォローできる」人なのである。昔は、科学技術の進歩や社会の変遷は今程ではなかった。若い時に教えられ・覚えたことを、そのまま言い続ければよかった。しかし、変遷の激しい現在において、お気の毒だが「昔の状態で頭が留まっている老人はひっそり」も仕方がないのではないかと思う。人間の頭はかなりの年齢まで総合的な進歩をする、と私は思っている。そのような老人にならないように自分自身注意したい。

 私はこれを社会的な不幸と思う。なぜならば、いろいろな貴重な資源(人・物・金・情報・時間)などが、これらのつまらない問題解決のために多大に使われてしまうからである。まして今後は少子化で若い人が減る傾向にある。益々、有能な人や若い人をつまらないことに使ってはならないのである。今のような事態は長期的には国を駄目にして行くだろう。相続税は別問題として、人の肉体的な寿命と事業上の寿命(本人意思も尊重し)を明確に区分するような社会になって欲しいものである。会社だって取締役会で社長を解任できるのである。何故家庭内でそれができないのだろうか。「相続税対策をやらせず、国ががっぽりと税を巻き上げる」ということを仕組んでいるのではなかろうか。こんなことを金持ちの苦労と単純に思う人もいるだろう。しかし、私は単純にそうは思わない。巻き上げられた税が、ばらまき行政に使われ、生産性の低い役人(全部がそうではないが)の人件費で消え、というより、お金と理性ある人にお金が余裕と理性を持って使われる方が余程よいのではなかろうか。その方が、よいお金の循環が世の中に起こるのではなかろうか。老人すべてではないが、若い人以上にお金をもっている老人は結構いる。しかし、そんな老人の多くは、お金を使わず(お金は頭がないと使えないから)、金利のちょっとばかりの差で預け先をあちこちと変えている、ようだ。残り少ない人生を楽しもうとせず、こんなことになけなしの頭を使っている。所詮、頭の問題なのである。