反省が出来ない人は惚ける
「反省」というが簡単なことではない。人の意見などを聞き、間違っていることがあるならば理性で判断し直すことである。直すと言うことは人の言うことも聞け、頭が柔軟なことである。自分もいずれそうなる、徐々にそうなると思うと嫌になるのだが、少々惚けている老人と接していて感じることがある。
- 頭の劣化から「人に何か指摘される」。「わかっている」と機械的・瞬発的に反発する人は本当に反省したり直そうとしているのではない。機械的に「わかっている」が出てくるのであって、考えているわけではない。いつもそのような事態に遭遇しているので機械的・瞬発的に出るだけである。言い訳にもならない言い訳を言い、言い訳人制で通している人もいる。考えない頭だから惚けにつながる。
- 「人の言うことを聞かない」も同様である。人の言っていることを聞こうとしないのだ。頭が回転していないのだ。
- 目が動いていない人も惚けている人である。
しかし、こんな頭は残っている。
- 「反発や言い訳」では、若い人並みに頭が回転する。恐らく、それが習慣となっているので、その部分だけは維持されているのだろう。これには「(理にかなってはいないが)自分でもあんな言い訳はできない」と感心することがある。
- 「体裁を表面的に繕う」である。これは自己防衛から人の目を気にしている証拠だろう。これも惚け前の若い頃からの習慣だろう。
- 「人が何を言っているのか気にする」も不思議である。ぼけっとしていても、自分に差し障りがあるときだけは、急に頭が活性になる。言葉尻でもそうなるから不思議である。
- 「嘘もうまい」と言っても、惚けている本人なのだから、どう考えているのかはわからない。気の良い人は疑わないから、これに振り回される。鍵がない、と言う。出る時にどうしたのだ、と聞くと即座に「閉めてもらった」などという。ところがバッグの中に鍵は入っている。良く探さなかっただけである。
- 「おかしい、変だ」とは言うが自分のことは決しておかしいなどと思ったことはない。若いときからそう言う人も多い。何かをどこのやったのか忘れる。普通の人でもこんな事はしばしばあるのだが「自分でどこにやったのかを必死に思い出そうとする」。限界を越えたときに人に助けを求める。しかし、若いときから自分で思い出そうとせずに、直ちに人を疑う人も多い。こんな人も惚けが早いようなきがする。
これらは、よく分析してみると「若い頃から頭を使う習慣がなかったことになるのではないか?」、そんなことから逆に「若いときから(積極的に考えることをせずに)言い訳や反発や体裁で過ごしてきた人は惚けやすいのではないか?」と思うようになっている。耳や眼と同様に重要なことかも知れない。
こんなことなので、私は子供から何か指摘されたときに「(尤もだなと思う場合には)そうだな、俺も劣化したな」と素直に言うようにしている。惚けても可愛い老人になりたい。それは「素直」なことなのではないだろうか。惚ける前から習慣づけなければならないのではないだろうか。反発ばかりしている惚け老人は、可哀想だと思っても可愛くはない。可哀想と思う一方憎たらしい。