老人天国の諸々

 戦後の日本がこれだけ復興を遂げた理由に「戦犯ということで多くの老人が追放され、国の運営に若返りがはかれた」ことを理由にする人は多い。私もそう思う。惚ける前ならば、老人には過去の経験に照らした総合判断力がある。一方では、企画力は落ちるなどの問題もある。多少の失敗には目を瞑り思い切って若い人に任せる運営が何事にも必要だろう。
 地域では80歳くらいの老人達も元気で活躍していると言いたいところだが、必ずしもそうとは言えない場合も結構多い。私の子供のころの70歳と言えば、杖でもついてよぼよぼ歩いていた。衣食住の改善から老化が遅くなったのだろう。年金などもまともにないのだから、子供にすがって生きていたのだろう。しかし、今の老人は違う。しかし、決して良いことばかりではない。
 私が50歳頃の時(今から20年前)、義母が「最近の老人は子供などに気を使いながら生活していていやね」と人と話をしているのを陰で聞いていて「それもそうだが、尊敬できる老人もいるし、そうでない老人もいるし」と考えたことがある。その結果「どうも、私は社会変化にフォローしている老人は尊敬し、百年一日のごとく昔に固執している老人は尊敬していない」と言うことがわかった。昔の社会変化は今と比較すれば遅々としたものだっただろう。そうであれば、自分の経験だけで物事を判断しても良かっただろう。変化なき社会では、惚けない限り死ぬまで老人は昔のことだけ言っておけばよい。しかし、変化ある社会ではそうは行かないはずである。

 昔は隠居制度があったようである。古い戸籍謄本などを見ると記録がある。次世代に財産や事業など全部を託し、ご隠居さんとして事業からは距離を置き社会につくしたり趣味で時間を費やしたりしたのだろう。しかし、敗戦とともに隠居制度はなくなってしまったのだろう。隠居制度があった時代は「事業寿命と肉体寿命が明確に別けて考える習慣があったはずである」。しかし、この両寿命は絶対的に存在し、法律上なくなっただけのことである。法律上なくなったので「事業寿命と肉体寿命を分けることを意識しない(無知)老人が増えた。その結果老人の無意識な居座りが多くなった」と言うことなのではなかろうか。と言うことで、度を超えて居座った居る老人などは引退願うような強い動きが若い人に出るのが当然なのだろうと思う。昭和天皇も長生きし、一時一般人の中でも70歳になっても「まだ皇太子ですから」と言う言葉が使われた時代がある。今の時代60歳になっても皇太子はざらざら居るはずである。ある会合で「議員の引退年齢」を話していると「とんでもない年齢までと言い、60歳はまだ若過ぎる」などと言っている人が居た。確かに、そんな面もあるかも知れないのだが「60歳を若いなどと言っているようでは活躍年齢がなくなる。大手の会社でもこの位の年齢で社長はいくらでもいる」と発言したところ、相手は黙ってしまったことがある。

 ある60歳以上の老人が講義を聞いていた。講演者が「貴方は何歳まで生きたいですか」と聞くと、60代の人々は80歳を越えて生きている人々の実際の姿を見て、80位で結構と手を挙げる。ところが70代になるとこれが90歳になり、80歳になるとこれが100歳などとなる。惚けてくると人間の生存欲は益々増して行くようである。