行政と私

 私が地域の行政と接するようになったのは、40歳を少々過ぎてからのことである。義父が他界しサラリーマンの傍ら妻方家の諸々の処理をしなければならなくなったからである。道路拡幅の件での接触だったのだが2人も来ればよいのにゾロゾロと6人も訪れてきた。市のお役人に「税金が歩いてきた」などと悪口をついたのが最初である。その後50歳少々前に自営業になり、自分の事業が市の目に付きお役人との交流が出来、私が商店街にかかわり始めてからはその方面でも交流が出来、そんなことをしている間に区役所との間でも交流が出来、複数の部局や区役所との交流が増えている。
 役所の運営は一流の民間の会社運営と比較すれば全体的にはまだまだだが、まあまと思われる部局の一部、全然駄目な部局の一部なども目に付く、区役所なども同道巡りしていることも目に付くのが実態である。そんな事例を紹介して行きたい。
 組織体質の急変などは、民間においても大変なエネルギーや摩擦などを伴うものであり、なかなか困難なことなのだが、外との競争がなく縦割りで自己組織の防衛に精神を注いでいればよい(税金の無駄食いとなり本来そうあってはならないのだが)行政などにおいては益々困難なことである。民間なら来年の売上がたたないなど常に心配しているのだが、行政の場合は変動はあっても税収が全くたたないなどというものはない。従って、調整で済んでしまうという安易な気持ちが底辺にあるからだろう。
 戦前の官僚から国家公務員への衣替えも衣が変わっただけで、中身は変わっていない。ずるいお役人は「我々はサービス機関ですから」などといって、中長期的な展望から物事を推進しなければならない「御上機能」を放棄してしまっている。御上機能を推進できるお役人も減っているかも知れない。何故なら、戦後の事業や職種の発展によって拡大したのは民間事業だから、人材がそちらに流れてしまうからである。
 別のところで記述することになるが、これを刺激し監視すべき議会の能力も低下している。事業や職種の発展によって、優秀な人間が「地方議員になろう」などとはまず思わないだろう、と思うからである。こんな根本的な問題があると思っている。
 私の場合、自分が民だという立場はほとんど考えず「何が正しいか」から発言する。間違っていることもあるだろうが、ある時は行政を指摘し、ある時は民も指摘する。しかし、多くの民というものは極めておとなしい。地域重鎮と言われる人々も行政に対してはおとなしい。何故なのか、と考えてみたことがあるのだが、それらの人々は大方、行政から補助金などを支給されている団体の長にあって、結局行政の言いなりに使われている、からなのだろうと最近は思っている。地位欲が勝っているのだろう。私の場合は「地域の(権限も実質ない)地位など(やむを得ずという以外は)いらない」と思ってるから、自分が民など考えないのだろうと思う。

分類 内 容 概 略
全体から 政治家というもの
権限を委譲しない本庁
作戦展開能力に弱い行政
非常事態への対応組織
 今、地方分権が叫ばれている。しかし、今の地方行政能力レベルで分権を進めたらゾッとする。メチャクチャになってしまうのではなかろうか。分権は中央がスリムになると言うことである。中央から地方へ移籍しようとする役人は居るのだろうか。皆中央にしがみつくのではなかろうか。こんなことで分権など掛け声ばかりで日本沈没にでもならない限り少しも進まないような気がしている。
 分権というものの基本は「末端まで考える頭を持つことが効率改善ができる」と言うことのはずである。
区レベル 箔付け優先の区長交代
区民会議の諸々
実績優先で軽いものばかり
階層がなく横並びの諸団体
本庁レベル 意外に機械的なものが多い本庁
役所届出書類の簡素化経験
市議会と議員 議員の経歴
ある改革委員会
消防と警察 消防や警察は外部との競争もなく、かつその機能や権限から外部から指摘されることも少ない組織と思って良い。そんな理由で、改革は一般の公務員以上に進まないのだろうと思う。